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犠牲など、無いにこしたことはないのに
犠牲を払わなければ何かを得られないというのはナイーブな考え方であり、実際のところ私たちが考えるべきは、いかにその犠牲を抑えるかであって、犠牲を許すことではない。しかし人は歳を取るにつれて物事をどんどんと許すようになるもので(さらに歳を取ると許せなくなっていくのがまた興味深い)、その場合に犠牲はもう「仕方のないもの」として野放しになる。
そのようにして正当化した犠牲がまかり通る世の中は、まさに弱肉強食、力あるものが力なき者を食い散らかす狩り場である。
犠牲という名のもとに逃げの一手をとると、このようなことになる。だから私たちはそれを許してはならないし、犠牲を払ったのならばそれよりもずっとずっと大きなものを手に入れるべきなのだ。そうでなければおかしい。犠牲は避けて当然だし、できればなくて良いものだからだ。
なのにおかしな自己犠牲精神か何かにより、犠牲を払うほど美しいという謎の神格化すら存在する。それを唾棄すべきものと断ずるのは個人的な感想ゆえに控えたいところだが、しかしそれは不必要な神格化である。
もちろん、メリットもないのにすすんで犠牲など誰も払いたくないだろう。それを払って喜ぶのは、払わなかった者だけだ。だからそれはなんの美しさもないし、むしろ犠牲を求めること、それが当然であること、その上に社会が成り立っていることは、私たちが直視したくない私たちの醜さのはずである。
いずれにせよ、そんな醜悪を正当化せねばならないくらいに、私たちは犠牲に慣れ、その上での生活を手放したくない。
本来は必要のないもののはずの犠牲を、しかしなければならぬと利口ぶって肯定するのはなぜか。どうしてそれをできるだけ減らそうとしてはならぬのか。その醜悪な美学はどこからきているのか。
犠牲。
賢しい我々が寄りすがるその概念は、それを払わぬ者がやはりいることを覆い隠している。それは当たり前ではなく、なくてもいいのにあるものであることを、私たちは自覚したほうがいい。
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