「苦労しなければ」という曖昧な焦燥感に従わないで

 苦労して生きねばならないという刷り込みは、私達に罪の意識を芽生えさせる。ただ楽に、あるがまま、幸せにあることを申し訳ないと思わせる力が、そこに存在する。自己嫌悪や自責、反省の念。それらが「苦労」の言葉によって引き連れられてくる。
 なぜならば、どうして苦労をするのかという理由の1つがそれだからだ。「周りは大変なのに、自分だけ楽をしていいのか」「他の人のように苦労をしなければダメなのではないか」そのように思わせるのが、苦労なのである。

「苦労をしなければならない」と縛り付けられることの1番の問題は、その「苦労」が具体化されにくいことである。むろん、なんの努力もなしに何かが手に入れられるとか、いい結果に結びつくとか、幸せでいられるなどと考えている人は少ない。
 けれど、そのような結果や幸せのためには、何をどうすれば望むものが手に入れられるのか、きちんと方針や作戦を立てることが近道なのである。
 それらは「苦労」とは限らないし、実際、周囲から見て大変そうなことでも、当人にはそう感じられないものだ。少なくともただ漠然と「苦労をしなければ」と思うだけでは無意味だし、そのような動機で行動しても、中々結果はついてこない。

 だから、「苦労して生きねばならない」は嘘であり、軽薄な言葉なのだ。そんな役に立たない偽物の罪の意識よりも、もっと具体的なアドバイスこそ必要なのであり、あるいは、私達が自分自身で考えねばならない生き方である。

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