見出し画像

言葉の神聖さに、自身の想いに敬虔であれ

「言葉」を扱うことに長けたいのならば、それを手段であるだけの単なる事象だと思わないことだ。それはあなた自身であり、生命であり、唯一無二のものである。
 しかし「言葉」をどこにでもあるありふれたものだと思うなら、あなたは言葉を扱うことに、まだ向いていないかもしれない。言葉はほとんどの人間が紡ぎ出す意思伝達の手段であるが、そこに表された意思や想いは、1人1人の唯一無二のものである。だからあなたの言葉はありふれたものではない。そこに宿る個人性は、ある種神聖なものである。
 そしてなお、それだけでは足りない。その神聖さに敬虔だったとしても、あなたはまだ言葉を扱うことに向いていない。なぜなら言葉に「乗る」意思や想いを認識している段階では、あなたにとって言葉はまだ手段であるからだ。そうではなく、言葉はあなた自身の考えと「融合」するものである。それは目的だ。あるいは、「言葉にした」ことも含めて、それはあなたの思いの形である。
 考えてもみてほしい。あなたがどうしても誰かに「好き」を伝えたいのに、そこに言葉がなかったら? 文字や文脈、文法。そういった諸々が存在しなかったとしても、それでもあなたはその想いを伝えるために、相手に向かって表現をするはずだ。「好き」という気持ちを伝えようと必死になるはずである。
 言葉が紡がれるのは、そういった想いの結果でしかない。ただし、手段でしかないというわけではない。結果だ。言葉は、それに想いが融合された結果として表出する事象である。だからこそ、それはありふれたものになり得ないのである。どれだけ文字というものがフォントによって均質化されたとしても、人々の情報が迅速に共有され想いが統一されても、「あなた」がいて、「言葉」があること、それが融合することの神聖さは変わらない。

 その言葉に敬虔になる時、あなたは初めて言葉を扱うことに向いていることになる。ほんのちょっとした意識の違いだ。それを続けていけることこそ、言葉に対して、あなたは正当な行使を許される。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

※関連note


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?