実は、誰も「そこそこ」を許されていなくて
生きれば生きるほど、人はその中にある「立派」を分析され、喧伝され、求められる。本人が本当はそう思っていなくても、その担うべき「立派」を勝手に掲げさせられるのだ。
それがどういうわけか当然となる世の中で、「そこそこ」ではなぜダメなのか、自分のため、友達のため、家族のため、仲間のためだけではなぜ足りないのか、私たちははっきりとは答えられなくなっている。
「社会貢献」とは「他人のために身を粉にしろ」と説かれることである。別に言われなくても、知り合いくらいまでなら役立ちたいと思うのはおかしくないのに、なぜそれを拡大し、もっともっと社会にかけがえのない存在になることすら、求められてしまうのか。
しかもそれは勝手になのである。
この社会には、他人を、他人のために「使う」構造が当然としてある。そしてその優先順位は、誰にでも知られている人からだ。それだけ多くの人に知られ、かかわらざるをえず、見られている。だから往々にして「規範たれ」と、言えば食い物にされるのだ。
それは良く言えば社会貢献とは言える。目立つ存在はそれだけ大層なことをしなければならない。しっかりしていて、有象無象とは一線を画していなければならない。
そしてもちろん、その立派さは相応に誰にでも求められる。別に有名な人間でなくとも、立派であることは良いことで、そこそこなことは悪いことなのである。もし許されているのなら、それはその人が、誰にも知られていないからでしかない。
ひとところ、「普通」が白日のもととなれば、その人はその人を知る人の数だけ「大層なこと」を期待されてしまうのである。
生きれば生きるほど、人はその中にある「立派」を分析され、喧伝され、求められる。なぜ立派でなければならないのか。誰かのためにならなければならないのか。
そのことを考えないままに私たちは、それを他人にどうしようもなく求めている。
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