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まやかしのマルチタスクは甘い罠

 マルチタスク
同時にいくつかの仕事をすること。また、そのさま。「―な法律家」「―な活動」

デジタル大辞泉

 ある時、マルチタスクがもてはやされた。それはこの、忙しくなっている現代人には欠かせない能力だと。それによって私達は、より多くのことをこなし、より豊かになり、よりよい未来を歩むことができるのだと。
 確かに、1つのことをする時間で2つや3つのことが同時にできるのならば最高だ。それにこしたことはないだろう。なんと言っても、マルチタスクはやるべきことを並行して行えるのだから、明らかにシングルタスクよりも優れている。私達は気づく。これまでの作業は効率が悪かったのだと。これからはマルチタスクの時代だ。できるだけ無駄なくスマートに生きようと考えて、マルチタスクは実践された。

 けれども、それは不可能だった。いや、もしかするとまだ、それを実践し、そしてできていると思っている人はいるのかもしれない。けれどそれはまやかしだった。マルチタスクとは名ばかりで、私達人間は「並行して作業している」と思いこんでいただけだった。
 マルチタスクとはつまり、シングルタスクを高速で切り替えているだけだったのだ。そう解明されてしまった。何かをやりかけている時に、あるいは何かをしながら、人間は別のことができない。目や、耳や、手の数は限られている。そして脳の神経細胞も、その通り道は一方通行だ。要するに、無駄などなかったのである。私達はこれまで、精一杯に作業をして、そして生きていた。これ以上など、酷な話だ。そしてかえって、無理な作業は効率を悪くする。

 マルチタスクというのはまやかしだった。人間にそんなことはできない。というより、できていると思っているマルチタスクとは、そうではない。それは単に、いくつかの作業を同時に、1つずつ進めているだけである。同時にではない。着手は同時でも、進行を同時にすることはできない。
 己の能力を過信していたのか、それともマルチタスクというものの本意を理解していなかったのか。そして中途半端なマルチタスクだけで満足してしまったのか。本当の効率化は、そこには求められていなかった。それがマルチタスクの実践における大きな失敗である。私達は無駄をなくそうと考えるあまり、その難しさを過信していた。まるで今まで自分たちが気づいていなかっただけで、やろうと思えばできていたかのように考えてしまった。
 けれど実際は、私達に本当のマルチタスクの能力はない。

 もしかすると未来には、それができるようになっているかもしれない。けれどまだまだだ。今はせいぜい、シングルタスクの切り替えをどこまで高速化できるのかという話でしかない。
 マルチタスクという言葉の罪は重い。それは、無責任な人間の能力への期待であった。単純な話につきまとう甘い罠。マルチタスクにはこだわらない方がいい。それができないからといって、どうということはない。そんなこと、誰もできないからだ。

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