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作家はどこにいるのか?

 ある作品をつまらないと思う。ある表現を見たくないと思う。誰かの提案を受け入れたくないと思う。そんな時。そこにはあなた自身の「作家」がいる。その作家が一家言を持ち、あなたの「作られたものを見る目」に影響を及ぼしている。
 もしその作家がいなければ、あなたはストレスなく様々なものを受け入れることができる。良いか悪いかは別にして、少なくともあなたは、買ってきた本や、おすすめに出てきた動画や、友人との会話や、街中のキャッチコピーなどに、つまらないと眉をひそませることはなくなるのだ。

 作家性とは、何かを作り出すことのできるクリエイティビティだけを言うのではない。それはそういったクリエイティブなものを、受け取る心の側にも存在する、いわば「感受性」のことでもある。
 作家性は何かを作り出し、そして受け取られ、消化され、価値観の一部となるまで存在し続ける感性である。それは人の個性に応じて様々な考え方を持っており、だからこそ、何が面白いかとかつまらないかといった判断に大いなる影響を与えるものである。

 即ち、注意しなくてはならないのは、「作家性」という言葉のイメージに翻弄され、私達はその性質が一部の人間にしかないものだと早合点してしまうことだ。しかしそうではなく、作家性は何かを受け取るあなたの心に、堂々と鎮座しているものである。当たり前のように、あなたが受け取ったなにがしかを吟味して、それをこういうものだと格付けする、心の作用である。
 私達は日常から、そのようにして作家性でもって物事を判断している。クリエイティブなものに対しては特に、偏見と感情と欲望と、自分勝手な好みでもって、それがどんなものかを判断している。私達1人1人にそんな心の作用があり、そしてそんな作家性達の総合的な評価が、社会的な評価とされるのだ。すべては受け手側の作家性から始まっている。作家性とは作り出すことのみならず、そのような受け入れることにもかかわってくるのだ。

 だからけして、あなたが何か受け入れなければならないものを判断する時、あなた自身がただの「観客だ」と思ってはいけない。それは残念ながら、傲慢である。あなたは不特定多数の1人ではない。きらびやかなステージに立つ役者を見上げる特徴のない誰かではない。あなたはあなた自身の作家性を持つ、1人の判断者である。
 だからこそ何かが面白い、そしてつまらないと思う時、それはその何かの作家性と、あなたの作家性がぶつかるからなのだと、理解しておくべきなのだ。

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