今、人が分かると勘違いするのは
人のことは分からない。
特に私たちが「人」である限り、自分を含めて人のことなど理解できるはずもない。にもかかわらず私たちは、変に技術や理性や思考というものに自信があるから、ついつい人のことを「分かったふう」に思いやすい。
様々な新しいテクノロジーやコミュニケーションの経験が、私たちに「分かっている者」という自負を与える。
でもそれは勘違いであり、往々にして思い込みだ。自分のことすら分からないのに、他人のこと、ましてや「人間とは」など分からない。それがゆえに私たちは人間を分類して、型にはめて、せめて「分かった気になって」いる。そうやって分からない不安や不満から目を逸らすように。
でも少なくとも、そうやって「分かっている」と思っている何かは頭の中にあるのだ。だからこそたちが悪いというか、自身は失われないというか、私たちは依然として人について何かを分かっているのだという自負がある。
なんど裏切られても、間違っても、損をしても、私たちは「間違っている」ことよりも「合っている」と思いやすい生き物だから、いつまでも変わることのない自信を持つことになる。
しかし、どこまでいっても人のことは分からないものだ。自分を含め、その人のことをいくら「こうだ」と分かったつもりでも、それは自分の中だけの話であって、しかも間違いが判明しても、合っているところがあれば結局、「分かった」ことを喜ぶのである。
分からない。
それが人と人の率直な互いの理解の基本である。
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