2次元は美でなければならないのか
空想の世界には、どのような理屈をひねったとしても醜いものはいらない。それが理想だ。
現実では、美しさや醜さはもちろん人それぞれで、しかもそれが存在するだけで否定されるなどあってはならない。でも残念なことに、2次元においては同じくらい、醜さなどあってはならない。それは誰も、醜いものを見たいとは思わないからだ。
もちろん、2次元にも醜いものは存在する。いらないなどとされながらも、その存在は確認できる。ただそれらは、圧倒的に、醜くなかったものがそうなることで、存在するようになってしまった、ということが多い。
つまり、結果として醜くなってしまったということと、最初からそうであることは違うのだ。2次元において許されないのは、最初から醜いものである。それは許されない。だからそれは敵なのだ。敵として扱われることに、なんの違和感もない。
反対に美しいものは敵ではない。そういう扱いを受ける。それが2次元のルールである。
少なくとも2次元は、「まず美しさありき」だ。それは世界観なのかビジュアルなのかテーマなのか様々あるが、少なくともこれは美しいのだと言える要素がないのならば、2次元として創出される意味がない。
その上で乗せられるものが醜さである。それは主役にならない。それは追いやられる存在だ。けれどもそうであることによって、その醜さは生き残っている。結局、存在そのものが許されないのではなく、目立つことを禁止されているとも言えるだろう。
美しさと醜さには役割があり、否定されて許されず見放されるものが醜さである。空想の世界――いわゆる2次元の価値観とは、現実の私達の眼差しを踏まえた、残酷な意識をもとにある。
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