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キャラクターの「喜怒哀楽」というキャラブレを御する

 キャラクターというものを創作する側の観点から言って、キャラクターとは設定の塊である。それがどのような出自を持ち、そして生きてきて、何を見据え、どのような好き嫌いや性格があるのか。そういった種種雑多な、大まかなところから細かなところまでの「設定を投影する」ものが、キャラクターというわけである。
 つまり、構築された設定を言動によって表出させるのがキャラクターというものだと定義できる。だから究極的には、キャラクターは設定外のことはしてはならない。その「キャラブレ」を起こすのなら、それは他のキャラクターになってしまうからだ。キャラクターはある種、何かに特化した窮屈な存在であると言える。なぜならそうでないと、そのキャラクターの強みも魅力も分かりにくくなり、それを見る人々に好きになってもらえないからである。

 だからそういう意味では、設定として定義されていなければ、そのキャラクターは「喜怒哀楽」すら表出できないことになる。予め設定されていない言動は、結局のところキャラブレなのだ。心優しいお姉さんが怒る、厳しい父親が笑う、屈強な王国騎士が泣く。そういった「設定と言動のズレ」は、どうしたってキャラブレ以外のなにものでもない。
 しかし同時に、私達はキャラクターのそんな一面を、どうしようもなく魅力に感じてしまう。いつも笑顔で優しく主人公を迎えてくれた姉が、ある時声色冷たく突き放す時。昔から仕事一筋で会話といえば成績や素行のことばかりの厳しい父が、夢を叶えた主人公を1番に笑顔で祝福する時。連戦連勝・百戦錬磨で口を開けば訓練鍛錬、そんな精鋭騎士が結婚を控えた恋人を亡くして号泣する時。
 これらは、そのキャラクターの物語であって、設定ではない。つまりそれは、設定から発展した勝手なキャラクターの言動なのである。しかしそれはとてもおもしろいし、魅力的だし、何よりキャラクターを見る人々に求められているものだ。
 そこには様々な理由が存在するが、1番にはそれが大きな「ギャップ」をうむからである。つまりそれにおけるキャラブレとは、設定に対する物語の裏切りなのと言える。上記の例は、いい方向での裏切りのため、キャラクターがより魅力的に見えるというわけだ。そのため、反対に悪い方の裏切り──姉が本当は妹だった、父親が自分に甘くだらしなかった、騎士は他人の手柄を横取りしていただけだった──であるとき、それは単にキャラブレとして忌み嫌われることになる。

 良い裏切りか悪い裏切りかは、単にそれによってよりキャラクターが輝くかどうか、感情移入できたり、魅力的に思えるかどうかという違いによる。要は結果論だ(芯をブラさないとか、人間らしさとかの、裏切る際の程度の基準はあるにはあるが、結局はやってみないと分からない)。
 しかし少なくとも、キャラクターとは設定を感情を伴う言動で表すものである。だから喜怒哀楽などのあらゆる感情は、どのようなキャラクターが持っていても(無口無表情なキャラクターであっても)、キャラブレにはならない。
 大切なのは、それがキャラブレの域に踏み込まないようにコントロールすること、きちんと調整することである。そうして初めて、それはそのキャラクター自身の個性として魅力的に映る。

 キャラクターは、そこに込められた様々な想いと設定の塊である。そしてそれを投影する際には、「どのくらいの感情」が許されるのかを考えることが最も必要なことだ。「どんな種類の」ではない。それはいかようなキャラクターでも持ちうるものだから、1つ、その程度を御することを、キャラクターというものを制作する側の観点として、きちんと持たねばならない。

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