敵は内にある。外の敵は妄想である
どうしても、他者を敵だと思う瞬間が訪れる。敵とは自分を脅かす者のことだ。そう感じられる誰かを目の前にした時に、私達は自分の中に疑念を抱く。その人物がどうしたって、自分に立ちはだかっているのではないかと。
しかし、前提として敵というのはそのほとんどが、大げさに言えば被害妄想によって作られる。それは幻、つまり認識の問題と言える存在だ。なぜならば、自分に危害がなければ敵とは思わず、その危害とは自分自身の尺度で計られるものだからだ。
私達はそれぞれ、被害者だと感じられる尺度を持っている。それは共感が難しいものだ。自分の命に関わることだから、その感覚が人によって違うのももちろんである。
そのようにして、敵とは私達のそれぞれの感性によって認定されるものなので、それ以外の人にとってはそうではなく、もちろん、世界にとってもそうではない。
だから、大げさに言って敵とは被害妄想である。それは勝手に、私達の中に作り上げられたものなのだ。誰かに加害されると思うから、その人を敵として認識することで世の中を単純に解釈し、自分へのいいわけを用意する。
敵ならば、その人をただ否定すればいい。その人がやることは悪なので、邪魔されている自分は善だ。だからむしろ、誰かを敵として認定することは、心を楽にする行為なのである。
けれども、残念ながら私達が求めるような敵はいはしない。それは外の世界ではなく、内面に浮かび上がってくるものなのである。
他者は敵ではなく、そしてあなたが思うほど、匹敵もしていない。自身の言い訳のために立ちふさがらせるほどの力はない。なぜなら他者とは、結局はあなたと同じ人間だからだ。あらゆる制限と限界の中で生きている、ただの人間だ。
それはあなたを凌駕するほどの力を持っているわけではないことに気づけば、無駄な想像力を働かせて敵など作り出すこともなくなる。
妄想による敵は、私達が見たくない内面を見ないために作り出す外の世界の幻だ。その誘惑は強く、よく私達は他者を敵と捉えてしまう。
充分に、内面を改善すること。それをしたあとに、残った問題こそが外側の問題である。その吟味を忘れたまま、私達は敵を作ってはならない。それは楽であるからついつい手を伸ばしてしまうことだが、そこを我慢して、安易に敵を作り出すことのないように、誰もが注意することが、平穏を作る。
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