民俗ルポ 「パーントゥ考 宮古島の来訪神」
前日のミーピーツナ
パーントゥ・プナハの前日。宮古島の中心地である宮良の市街地から遠くはなれた、島の北部にある小さな集落である島尻に入る。集落随一のスーパーマーケットであり、人々が集う場所となっている島尻購買店に行き、何人かの島人に、明日とあさっての来訪神の行事で儀礼や見どころの起きる場所を聞き取りした。実際に現地を歩いて、撮影位置などを確認する。パーントゥが地底から生まれてくるというンマリガーという沼。パーントゥが真っ先に拝礼におとずれる元島の聖地。パーントゥたちがおとずれて、人間たちと酒を酌み交わすムトゥヤ(元家)など。
前日におこなわるスマッサリの神事は終わってしまったとのことで、見逃してしまったが、集落の御嶽の外にミーピーツナが張ってあるところを、映像と写真で撮影することができた。集落の長老たちが藁を各自で持ちよって、縄をなうところからその行事ははじまる。縄の中間には、豚の骨の切れはしをひとつ結わえる。集落の外からなかへ入る入口に、厄除けのために、このミーピーツナを張りめぐらせる。しかし、わたしが確認できたのは1箇所のみであった。宮古島図書館の郷土資料コーナーで収集することのできた文献によれば、ミーピーツナには次のような意味がある。
スマッサリの神事やその準備を観察し、考察することができれば、この行事だけでも十分に興味ぶかい調査になるにちがいない。
島尻集落のパーントゥは、旧暦9月の初めにおこなわれる祭祀である。この小さな集落は、上里、東里、南里の3つのサトゥ(里)にわかれており、プナカと呼ばれる祭祀が年に3回おこなわれる。プナカでは、集落の男性の古老たちがムトゥ(元)と呼ばれる場所に集まって、酒宴をもよおす。その3回目のプナカに出現するのが、3体の仮面神であるパーントゥである。以上のような理由から、この祭祀は「パーントゥプナカ」とも呼ばれる。
パーントゥの起源は次のように言い伝えられている。昔、島尻集落にあるクバマという浜に、クバの葉で包まれた仮面が漂着したことが、始まりだった。その仮面は、集落に富をもたらし、悪霊を連れ去ってくれるものとして大切にされた。つまり、厄払いの側面がつよいのだ。いったん戦時中に仮面は消失したが、現在は3つの仮面があるという。
ところで、ンマリガー(産まれてくる井戸の意)と呼ばれるむかしの井戸で、夕方にパーントゥが誕生することになっている。パーントゥが集落に出現するのは、17時から20時までと集落の人に聞いたので、その日は少し早めの16時ごろを狙ってンマリガーにむかった。だが、関係者以外は入れないとのことだった。写真は前日の様子を撮ったものだ。ンマリガーでパーントゥに扮装する男たちの撮影は、よくよく撮影許可を得る努力をしないとむずかしいだろうと感じた。
パーントゥの体に巻きつけるつる草を集めて、集落の男たちが軽トラックでンマリガーに運んでいた。かつてはこのつる草を集めてくるところも、重要な祭祀の一部だったという。パーントゥ役の男性は、つる草を束にして、スマッサリで使ったミーピキヅナを使い、腰のところで結びつける。そして、沼の泥を体や束に塗りたくる。実地でパーントゥを見ると、本当に重たそうに見えて、これは体力のある男性でないと務まらない役割だという感じがした。
そのほかに、パーントゥは頭のてっぺんに、ウーキャと呼ばれる魔除けの干し草のお守りを立てる。ほかには杖を片手にもって、足はどこでも裸足で歩くといった具合である。【註3】パーントゥに扮装をする場面は、ぜひとも実見したいところだが、現地のコミュニティが禁止しているものを無理に見ることはできない。
来訪神の出現
祭祀の1日目。夕方の16時と聞いていたが、ンマリガーに近づくことが禁止されていたので、野原の隅で数十人がパーントゥのお出ましを待っていた。観衆がざわめきだしたので遠くを見ると、パーントゥ3体が畑のなかの小道をこちらに向かって歩いてくる。横を歩いている男性は扮装を手伝っていたのか、あるいは祝福のために抱きつかれたのか、体のあちこちが泥で汚れていた。その様子を見たカメラマンがたちが次々にシャッターを切る。ヴィデオカメラやスマートフォンで動画を撮影する人たちも多かった。地元のテレビ局だけではなく、東京から全国ネットの番組ディレクターもきていた。
唐突に1体のパーントゥが突然に走りだし、容赦なく大人や子どもに泥を塗りたくる。子連れできていた家族の小さな子どもが、怖がって大きな声で泣くのだが、これぞシャッターチャンスとばかりに、そこへ人々が群がって泣いている子どもの姿の写真を撮っていく。パーントゥはあえて傍若無人に振る舞い、また、そうすることが許されているという雰囲気だった。しかし、その近くには補佐役の人間がついていて、パーントゥ役の世話を焼いたり、次におこなう行動を示唆したり相談したりしている。主催している集落のグループのチームワークが目立つ場面が多かった。ひとつの団体において行事を執り行うときの「人びとの協働」のあり方が興味ぶかい。
そのような祝祭空間ならではの騒動を起こしながらも、パーントゥたちは坂を下って、港のすぐ近くの丘陵になった聖地である元島へむかう。ここは島尻集落がはじまった頃に、祖先たちが暮らしていた場所だとされている。これも祭祀の前日に見学しておいたのだが、聖地である御嶽のほかに、集会所や畑がある重要な場所だ。地下世界であるあの世からやってきたパーントゥは、ンマリガーという池からこの世界に顕現する。そして、最初に訪問する場所が、この元島であるということからも、その重要性はよく理解できる。
ところが、この場所でも、テレビ局や新聞社も含めて、オーディエンスはすべて立ち入り禁止にされてしまった。であるから、フツムトゥの入り口でパーントゥたちが拝礼するところを見ることもできなかった。宮古島における伝統的な祭祀においては、さまざまな禁忌があって、特に外部の者に対してクローズドにされる場合が多い。そのことにフラストレーションがたまってしまうが、翻して見れば、それだけ共同体において祭祀をきちんと実行しよう、その形を残していこうという強い意志が感じられるのだから、長い目で見れば良いことであるにちがいない。
海にほど近い元島の領域からパーントゥ3体と世話役たちが出てきて、集落へといたる坂道をあがっていく。この時点で出現から30分以上が経っていただろうか。パーントゥはつる草と泥によって数十キロの重さになるという装束を身につけて、片手で仮面をおさえながら歩いているので、なかなか骨が折れるようだ。1体はすでにバテているようにさえ見えた。パーントゥ1体にひとり以上の付き添いがついており、視界のせまいパーントゥを先導したり、何かと世話を焼いてやる。
集落に入ると、祝日の竹下通りのような人混みが、パーントゥたちを出迎えた。集落の人たちはもちろんのこと、近隣の集落からきた中高生、宮古島のほかの地域から見物にきた人たち、そして沖縄の外からきた観光客や外国人の姿もちらほら見かけた。昔は薄闇のなかでパーントゥが通りすぎるのをこわごわと待ったというが、現代ではそのような情緒はまったくなかった。観光化されたというよりは、アトラクション化されたという印象を受ける。
長い年月のあいだに、受け手の側の意識が大きく変化したのだろう。島尻購買部の横には臨時の出店がつくられ、ビールやお酒やつまみが売られている。多くの人たちは道ばたに座って、パーントゥのお出ましを待ちながら、おしゃべりしたり、ジュースを飲んだり、スナックを食べたり。庭先に折りたたみ椅子をだして、家族同士や友人とバーベキューを楽しむ者たちもいる。宮古島の北と南を結ぶ幹線道路は、パーントゥのために交通規制をしていて、サトウキビ畑の前で長い長い自動車の渋滞をつくっていた。
そうはいっても、祭祀は昔から伝えられてきた通りに進行していく。上里のムトゥでは、10人近い男性の古老たちが、家の前にござを敷いて酒盛りをしていたが、その輪に順繰りにパーントゥたちが入っていく。顔や体を泥だらけにされた古老たちは、うれしそうに塗られるがままにされて、それを受け入れている。パーントゥの泥には、厄払いのほかに健康の効能もあるらしい。歓迎されたパーントゥは、次々にビールやチューハイや泡盛の盃を勧められる。
あのように重い装束を身に着けているのに、お酒を飲みすぎていないかと傍目から見ても心配になる。だが、そこは祭りなので狂騒はつきものだ。このムトゥでは、酒宴の輪のそばまでいって、パーントゥと人間たちの交流をじっくりと見ることができた。だが、東里のムトゥでは一般人の立ち入りが禁じられて、その様子を観察したり撮影したりすることはできなかった。南里では庭先にござを敷いて酒宴をしていたので、誰でも道路からその様子を見ることができた。どの場所では何が禁止されていて、どの場所では何が許可されているのか、主催をする島尻集落の人たちによって細かく決められている。それは必ずしも明文化されたり、看板で示してあったりするような事柄ではない。取材やフィールドワークをするときには、集落の人たちに事前に話を聞くなどして、その心の機微に注意して調査を進める必要がある。
祭祀の行動学
パーントゥプナカの1日目に、ひと通り、島尻集落のなかのどの場所でどのようなできごとが起きるか見学を終えていた。であるので、2日目は次に何が起きるのかを予想がしやすく、この行事をじっくりと観察することが可能になった。また、写真や映像によって記録するという面においても、それは行いやすくなった。それから、すでにいくつかの文献を入手して読んでおり、1日目の経験とそれを照らし合わすことができたので、行事において人びとがおこなう、それぞれの行動が、深いところでどのようなことを意味しているのかについて考え巡らせながら、パーントゥプナカの祭祀を観察することができるようになった。
たとえば、パーントゥ3体が縦横無尽に集落のなかを歩き、ムトゥで酒宴に加わったり、囃したててくる子どもたちを追いかけて、顔や体に悪臭のする泥を塗ったりするなかで、それらは敏捷に走ることがある。すると、腰で締める縄がほどけてきたり、つる草(シイノキカズラ)の装束が落ちてきたり、塗りたくった泥がはげてきたりという事態が起きる。しかし、来訪神はその内側に人間が入っているとわかってはいけない。少なくとも、そのような意識で主催の主催者は行動しているように見えた。
そこで、ちょうど島尻集落の真ん中あたりに位置する「島尻農村研修集会所」の敷地内に、ブルーシートで囲った四角いスペースをつくり、そこでパーントゥのお色直しをしていた。なぜなら、集落の外れにあるウマリガーまでパーントゥがいちいち戻って、そこで泥を塗り直すことはできないからだ。おそらくは内側に主催者のメンバーがいて、パーントゥの装束を直したり泥を塗り直したりする場所なのだろう。パーントゥたちがそこへ入っていくのを見届けて、しばらくのあいだ外で待っていると、ふたたび新鮮な泥で黒光りするパーントゥが、休憩で少しは体力が回復したのか、元気よく再登場してくるという具合であった。
そのほかにも、島尻集落の主催者たちが、かなり気を使っているように見えたのは、前述のように扮装をしているのが人間だとわからせないようにする、ということだった。むろん、子どもたちも大人たちも、パーントゥは集落の男が変装したものだと当然知っている。それにもかかわらず、それが人間だとわかる身なりにならないよう、とても気をつけていた。パーントゥは一度、集落に登場したら、3時間ほどのあいだ、ずっとパーントゥの姿を保っていなくてはならない。お色直しをしたあとにも、パーントゥが必ず頭の上にウーキャと呼ばれる干し草のお守りを差していた。
ウーキャは必ず上の部分で輪っかに結んであり、それはマータと呼ばれる。文献によると、マータはカヤの葉の先に「魔よけのしるしのわなを結んだもの」の意であるという。ちょうど輪っかになるように何箇所かを結び、その輪っかによって悪い魔物を捕まえるという、J・G・フレイザーがいうところの一種の類感呪術だといえるのではないか。宮古島では、マータには魔物を払いのける力がひそんでいると、古くからの風習において信じられてきた。たとえば、親類の家に食事などのおすそ分けをするとき、皿と皿のあいだにマータをさしこんで持っていく。あるいは、葬儀のときに、横穴式の墓の入口を開けて、そこへ棺を入れるときも、それを開ける人たちは、頭の上をマータでお祓いしてから棺に手を触れるという行為をする。【註4】
来訪神のメディア論
ここまでパーントゥという伝統芸能を題材にして、いろいろな事象を報告をしてきた。ところが、文章や写真ではなかなか伝えることができない事象がある。それは、現地において行事を主催し、それに参加する人たちの感情のひだであろう。これはやはりその場所におもむき、足を運び、空気を吸い、現地の人たちに話を聞いて、その人たちとともに行動するというフィールドワークを通してでなくては感じとることができない性質ものである。
たとえば、現地にいってみて大変驚くのは、いかにパーントゥが島尻集落の人たちに歓迎されているか、ということである。ムトゥで古老たちがパーントゥを迎えることは前述した。そのほかにも、産まれたばかりの赤ん坊や小さい子どもがいる親たちが、わざわざパーントゥに近寄って、頼んで、子どもに泥を塗ってもらうという行動をしばしば見かけた。それからパーントゥに扮する男たちは、前もって連絡を受けているものと見えて、集落のなかである特定の場所を訪れるということがあった。それは新築や改築があった家や事務所や店などであり、それに加えて、集落に新しく入ってきた家族の元には、わざわざパーントゥが屋内まで入っていき、その家の壁や窓や人びとに泥を塗りたくるという場面も見られた。
これはもちろん、パーントゥの泥に魔物や害厄を追い払い、無病息災を保証するという潜勢的な力があると考えられるという民間信仰からきているわけだ。おもしろいことに、その泥が持っている力は、人間に対してだけでなく、建築物や家という空間にまで及ぶと考えられているのかもしれない。これが本当に昔からの考え方なのか、それとも近現代になって考え方が移り変わるなかで、定着してきた新しい慣習であるのか、見極めたいところだ。そのことに加えて、宮古島の中心地から遠くはなれた北部の小さな集落において、仕事で新しく入ってきた人たちや家族を集落に迎え入れて、共同体のなかで受け入れるという象徴的行動を、このパーントゥが担っているように見えることも強い関心をおぼえてしまう。
「伝統芸能」や「祭祀」や「行事」と言葉でいうと、とっつきにくく感じられるかもしれない。しかし、現地に入り、一度パーントゥに参加してみれば、それは家族や親戚が集まり、あるいは友人同士で集まって、酒を飲み、おいしいものを食べ、老いも若きも、男性も女性も子どもたちも、誰もが来訪神を出迎えることで興奮してやまない、そんな祝祭空間の出現だということがわかる。それは祭りという非日常空間の現れであり、アートやエンタテインメントも深いところでつながっており、まさにその根源を見るような経験なのだ。
パーントゥには、仮面の漂着という神話や民話のストーリーの要素がある。それから、集落の人たちが材料集めから装束づくりまでを手がける、メイクアップや仮装の要素がある。そして、ムトゥという氏族の祖霊に礼拝する信仰の面をもちながら、道ばたや家々の敷地でパーントゥが無礼講的な振る舞いをするというパフォーマンスの側面がある。
そこには、観衆や子どもたちがパーントゥに泥を塗られないように逃げまわる遊戯の要素があるだけにとどまらない。観衆が自分のもっているスマートフォンやカメラで、いかにこのパフォーマンスをうまく撮影するかを競う、パフォーマーと観衆の垣根をこえたインタラクティブな場にもなっている。それは伝統芸能の鑑賞という静的な経験にとどまらず、メディアを介在させて、それに能動的に関わる性質を持つので、現代の映像文化やメディア文化を考察するよい機会にもなりうるのだ。
註1「パーントゥの行動」平良新亮著『島尻のパーントゥ調査報告書』編集発行=平良市教育委員会、昭和60年3月発行、34頁
註2「パーントゥプナカについて」本永清著、前掲書13頁
註3『宮古島市neo歴史文化ロード 綾道 四島・西辺コース』編集・発行=宮古島市教育委員会、2021年3月刊、38-39頁
註4「パーントゥの行動」39頁
【文と写真】
金子遊 評論家、民俗研究者。近著に『インディジナス 先住民に学ぶ人類学』(平凡社)、『異境の文学』『マクロネシア紀行』(共にアーツアンドクラフツ)など。