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時差進化 - 第5話:深海からのメッセージ
深海調査船「オセアナ」の制御室に、静かな緊迫感が漂っていた。夜明け前にも関わらず、モニターにはえんえんと深海カメラが捉える映像が流れている。熱水噴出口から広がる微生物の群れは、右利き生命らしき輝きを宿し、その中に点在する結晶ファージの“巣”がまるで灯台のようにほの暗い深海を照らしていた。
「発光パターンが、一段と複雑化しているように見えますね。」
リン・マルグリス博士が端末を操作しながら、まばゆい光の解析データを重ねていく。理論家としての目が輝き、眉間には小さな皺が寄っている。「規則正しい周期に変調が入り、ところどころ倍速になる。まるで多層的なリズムが走っているようだわ。」
「言い換えると、単なる代謝活動じゃ説明がつかないってことか。」オットーが苦い表情で応じる。「メッセージ性がある、いや、むしろコミュニケーションかもしれない。だがどう受け取れってんだ?」
ヘンリエッタはモニターを覗き込みながら、小さく頷いた。「右利き生命と左利き生命の境界が溶けはじめた今、この“奇妙にデザインされたファージ”が作り出す発光――何かを“呼んで”いるかのように感じる。」
「呼んでいる?」ウィル・ディアス船長が声をひそめた。「それがもし、人類に向けた信号だったらどうする? 歓迎か、警告か、それとも……。」
干渉の拡大
一方、ラボからの速報が届く。オセアナの若いクルーが突如として謎の発熱を起こし、検査したところ血液中にごく微量の“D型分子”が検出されたらしい。途方もない話だが、排水や微粒子が何らかの形で船内に入り込んだ可能性を否定できない。
「どうやら、右利き生命に接触した海水やエアロゾルが船内に混入したのかもしれない。」アナベル・コールマンが報告を読み上げる。「人体細胞が直接D型アミノ酸を取り込むことは想定外よ。オートファージ異常が起きるかもしれないわ。」
「オートファージ……。」ヘンリエッタの胸にチクリと不安が募る。自分も同じ空気を吸い、同じ甲板を踏んでいる。「人間の細胞がD型分子に触れて、誤作動を起こしたら、どんな影響が出るのかしら?」
アナベルは鋭い視線で続ける。「今のところ症状は軽い発熱程度だけど、これ以上拡大すれば、乗組員全体を隔離しなきゃいけない。船を捨てる、なんて最悪の展開もあり得るわよ。」
ウィルは苦い表情で頷く。「さっそくクルーの健康管理を徹底しよう。船外活動やサンプル採取は最小限に、廃液処理も厳格化する。これ以上リスクを高めるわけにはいかない。」
深海が呼ぶ声
その夜、ヘンリエッタは制御室に一人残り、深海の発光を見つめていた。ちらつくリズムは先刻より一層激しさを増し、結晶ファージの巣がまばゆい閃光を放つ瞬間もある。
「もしこれが……深海からのメッセージだとしたら、私たちは何を返すべきなんだろう。」
誰にともなくつぶやく声はかすれ、期待と恐怖が混じった響きを帯びていた。
背後から足音がし、リンが静かに近づく。「ヘンリエッタ。私は共生進化論を研究してきたけど、こんな形で鏡像異性体を橋渡しする存在が現れるなんて、夢にも思わなかったわ。科学的には興奮を隠せない。」
「ええ。だけど、これが暴走すれば、地球全体の生態系がどう変わるか想像もできない。」ヘンリエッタは瞳を伏せる。「私たちが深海の扉を開けてしまったせいかもしれない。彼らが眠りから醒めて、“時差進化”を爆発的に進めているのだとしたら……。」
リンは穏やかに肩をすくめた。「恐れてばかりいては何も解明できないわ。少なくとも、この発光リズムや結晶ファージが、『意思』を持つかのように振る舞っていることは間違いない。私たちは、彼らの言葉を読み解くべきじゃない?」
決断へのプレリュード
翌朝、ウィルが「共鳴パターンのデータ解析会議」を全クルーに指示した。深海からの発光が何らかの周波数や振動を帯びていれば、それを翻訳する糸口が見つかるかもしれない。人類への脅威を招く前に、本当の意味を探る必要がある。
「もしこの光のリズムが、“共生への招待”だとしたら?」
ヘンリエッタの問いに、オットーはまゆを吊り上げる。「あるいは“大量感染”への誘導かもよ?」
いずれにせよ、深海が呼びかけていることは確実だった。
それが“光”という形で示される以上、無視を貫けば予想外の危険が世界に拡大しかねない。だが応じるには、立体化学とオートファージという大きなハードルも横たわる。
「時差進化は、私たちが見過ごしてきた地球のもう一つの道かもしれない。」リンはラボの窓越しに海を見下ろす。「それを拒むか、受け入れるか、今が分かれ道なのね。」
ヘンリエッタは唇を引き結び、モニターに揺れる深海の輝きを睨む。そこにはふと、人類へ手を伸ばすかのような光の集合があった。
「分かれ道……選ぶのは私たち。でも、その先に何が待つんだろう。」
深海が語りかけてくる。右利き生命、結晶ファージ、融合するかもしれない左右の世界――すべてがつながり、見えない未来へと誘っているように思えた。読み手も研究者たちも、その“深海からのメッセージ”の真意を知るすべはまだない。ただ一つ確かなのは、彼らが声を聴き取らなければ、世界は黙って崩れゆくかもしれない、ということだ。