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時差進化 - 第4話:未知なる共生理論

海上は朝焼けに染まり始めていたが、深海の闇は永遠に続くかのように静寂を保っていた。オセアナの制御室では、ウィル・ディアスが深海カメラの最新映像をモニターし、ヘンリエッタとオットーがラボの測定値を確認していた。その全員を待っているかのように、ロビーに一人の人物が立っている。

「リン・マルグリス博士ね。昨夜到着したそうよ。」
ヘンリエッタがモニターから顔を上げると、期待と少しの緊張が入り混じった表情を浮かべた。「細胞内共生論の第一人者。まさか来てくれるなんて。」

「彼女がこの右利き生命騒動に興味を持ったということだ。」ウィルが言う。「鏡像異性体の生物が、左利き生命を変異させ始めている現象をどう考えるか、是非彼女の見解を聞きたいな。」

出会い

リン・マルグリス博士は思ったより小柄だった。灰色がかった髪を後ろで束ね、微笑をたたえた目元には長年の探求が刻んだ皺がある。研究者というより、小柄な旅人のように自然体で、しかし周囲に醸し出す雰囲気は鋭敏そのもの。

「はじめまして。リン・マルグリスです。」
穏やかな声で自己紹介をすると、ウィルが握手を交わした。「オセアナへようこそ。こんな僻地までお呼び立てしてすみません。」

「いいえ、私は自分が興味を持つことなら、どこへでも飛んでいきます。」リンが視線をヘンリエッタとオットーにも向ける。「あなたがたが発見した右利きアミノ酸の生命……詳細を伺うのを楽しみにしていました。共生進化論を補強する大きな手がかりになるかもしれないと思って。」

ヘンリエッタは深く頷いた。「突然変異や進化論の枠を超えて、彼らは別の時間軸で生き延び、今、左利き生命との“共鳴”を始めています。私たちもまだメカニズムを把握し切れていなくて……。」

「お話を聞く限り、立体化学的にも遺伝子工学的にも整合性が取りにくい現象ね。」リンが真剣な眼差しを向ける。「そこに、極限環境下の水平伝播や、何らかの分子シャペロン的仕組みがあるのかもしれない。」

分析室での対話

その後、リンはラボに案内され、右利き生命の発光パターンや左利き生命への干渉データを次々とチェックしていった。ウィルとヘンリエッタが注視する中、オットーが今回の最大の問題――D型生命とL型生命が短期間で融合しつつある――を改めて指摘する。

「鏡像異性体同士が協調して代謝を共有なんて、立体化学の壁をどう越えているのか。従来の知識なら“あり得ない”と切り捨てられそうだ。」

「そうでしょうね。」リンが頷く。「だが、生命は我々が想定する以上に柔軟。細胞内共生論だって当初は“あり得ない”と否定された。でも、実際に真核細胞はミトコンドリアを取り込んで、酸素を利用した高効率のエネルギー代謝に成功した。もしこの右利き生命が独自の“ハブ”を持っていて、それが左利き細胞内に入り込む道を切り開いているとしたら?」

「そうか。ウイルス様粒子やRNAが仲介する水平伝播のような?」ヘンリエッタは目を輝かせる。「D型酵素を、左利き生命が無理なく扱えるように“翻訳”する触媒系があるのかもしれませんね。」

リンは静かに微笑んだ。「もちろん、仮説の域を出ないわ。でも、大事なのはそこから実験や観察で事実を探ること。私たちに与えられた宿題は多いけれど、答えが出たとき、生命とは何かという問いに大きく踏み込めるはず。」

揺れる深海の光

一方で、熱水噴出口周辺の映像では右利き生命がさらに活性化し、左利き生命との接触頻度が増えている。深海カメラが捉える発光パターンは複雑化し、その周期が絶えず変化しているのが観測された。

「まるでダンスみたいね。」リンはモニターに映る揺らめく光を見ながら言う。「相手の動きを取り込んで、次のステップを導き出しているように見える。エネルギー効率を高め合う、そんな可能性もある。」

「もしこのダンスが成功したら、D型とL型の境界なんて概念はなくなるのかしら。」ヘンリエッタが低く呟く。「生物学の大前提が覆るような瞬間……。」

「あるいは、生物学の前提を“拡張”するだけかもしれない。」リンが続ける。「いずれにせよ、この時差進化が引き起こすインパクトは計り知れないわ。私たちの文明や倫理感にも影響が及ぶ可能性すらある。」

「だからこそ、慎重さも必要だな。」ウィルが割り込むように言う。「下手に干渉すれば、想像もつかない生態系の変動を誘発しかねない。観測機材からの電磁波や化学物質が、彼らの“目覚め”を助長している気もする。」

未来への選択

物語は新たな局面を迎えていた。鏡像異性体の境界を越えて、生命同士が共鳴する深海の光景――それは人類が未踏の領域だった“時差進化”の真髄をちらりと示す一方で、取り返しのつかない危険をも孕んでいるかもしれない。

「私たちが注視すべきは、彼らの融合がどんなエネルギー循環や遺伝子流動を生むか。」リンがチームを見回す。「従来の常識に囚われない姿勢で、ありのままを見つめ、記録しましょう。これは間違いなく、人類にとって大きな転機になるわ。」

ヘンリエッタは深く息をつき、モニターに揺れる光を見やった。
「そうね。過去に選ばれなかった進化の可能性が、今、私たちの前で花開こうとしている。私たちはどう向き合うべきなのか――それがこれからの課題ね。」

揺れる深海の光は、あたかも新たな進化のシグナルを送り続けているかのようだった。リン・マルグリスという新たな仲間を得て、オセアナの科学者たちはさらに深く未知の扉へ踏み込む。そこには、鏡像の世界を超えた新しい“共生”のヴィジョンが待ち受けているのかもしれない。

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