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時差進化 - 第1話:右利きの生命なんて、絶対存在しない

ヘンリエッタ・サントスは、深夜のラボで顕微鏡を覗き込みながら、鼓動を抑えきれずにいた。数時間前に深海から引き上げられた試料には――彼女の直感が告げている――ただならぬ秘密が眠っている。アドレナリンのせいでまぶたが重くなるどころか、意識は研ぎ澄まされていた。

「ヘンリエッタ、まだ起きてるのか? もう十分データ取ったんじゃないか?」
ラボの奥から声をかけたのは、化学分析担当のオットーだ。彼もまた眠気を忘れ、試料解析の結果をチェックしている。

ヘンリエッタはディスプレイに映る微生物の姿を指差した。「オットー、この代謝プロファイル、明らかに普通の深海微生物と違う。熱水噴出口に棲む連中なら、もっと安定したパターンを示すはずなのに……これは活発すぎるわ。」

オットーは肩をすくめつつ、近寄ってきた。「まさか“新種”ってわけじゃないよな。深海には未知の生物なんてゴロゴロしてるんだし。」

「それは分かってる。でも、こんなに規則的な代謝リズムを持つ微生物は私も初めて見る。」ヘンリエッタは顕微鏡の倍率を上げ、蛍光標識された微小な球体を睨む。「この緑がかった光――何かを伝えようとしてるかのように見える。」

その言葉にオットーは苦笑いを浮かべた。「微生物がメッセージ? ドラマの見すぎだろ。でもまあ、面白いサンプルには違いない。もう少し調べてみるか。」

二人が笑みを交わすと同時に、制御室から呼び出しのアナウンスが入った。船長兼プロジェクトリーダーのウィル・ディアスが、ラボに向かうとのことだ。ここ数年、深海探査を率いる彼も、今回の発見には内心ワクワクしているのかもしれない。

未知との遭遇

深海調査船「オセアナ」が今回調査しているのは、東南アジアの海域に点在する熱水噴出口だ。海底から噴き出す高温の水には、硫化物や金属が含まれ、多様な微生物が生息する極限環境として知られている。そこに潜む未知の生命――その可能性こそが、ヘンリエッタを突き動かしてきた。

オットーが端末を操作して、高速液体クロマトグラフィー(HPLC)の解析結果を呼び出した。
「ピークが妙に反転してる……。通常のL型アミノ酸とは違う分布だぞ。」

その言葉に、ヘンリエッタの心拍はさらに上がる。「まさか、これって……?」彼女は震える指で画面を拡大する。「偏光性を再チェックしてみて。もしこれがD型アミノ酸――右利きの分子だとしたら、地球上の生命の常識がひっくり返るわ。」

「分かった。質量分析にもかけてみる。」オットーの声がやや上ずる。地球上の生物は例外なくL型アミノ酸を利用するのが常識であり、D型だけで構成される生命なんて夢物語。しかし、もしそれが事実なら彼らはとんでもない発見を目前にしている。

衝撃の結果と微かな違和感

数分後、質量分析計が静かに動作を終え、ディスプレイに結果が表示された。ヘンリエッタが息を飲む。「出た……D型アミノ酸で間違いない。」
オットーも言葉を失った。その場に、ちょうどウィル・ディアスが入ってくる。

「何か新しい報告があるのか?」ウィルは冷静だが、その声には期待の色が滲む。

「右利きのアミノ酸を基盤にした微生物を見つけました。まるで……地球生命の常識を覆す存在です。」ヘンリエッタは興奮を抑えながらも、うまく言葉にできない。

「右利き……本当なのか?」ウィルがディスプレイを覗き込む。
「ええ、確証があります。」オットーが頷いた。「立体化学的にも間違いない。そして、この微生物の代謝はやけに活発で、既存の熱水噴出口生物とはまるで違うパターンを示している。」

ウィルは黙考しつつ、深海カメラの映像に切り替えた。そこには、先ほど採取したサンプル付近の海底のリアルタイム映像が映る。熱水噴出口の周りに、微かに光る塵のような微生物群が揺らめいている。
「これが……まさか。」

ヘンリエッタは画面を指差した。「あの発光、やはり規則性があります。私たちは単なる深海微生物と侮っていたかもしれないけど……これは何かのシグナルかもしれません。」

「もし彼らが本当にD型アミノ酸だけで生命を構築しているなら、生物学史上最も衝撃的な発見だ。」ウィルの声に熱がこもる。「ただ、あまりに異様だな。何かこのエリアだけ特異的な理由があるのか?」

オットーが少し言いにくそうに口を開いた。「実は、同じ試料から妙な“粒子”が混じってるのも気になるんです。どんなウイルスとも違う形状で……。ただのノイズかもしれないんですが、形が少し人工物っぽいというか……。」

「人工物?」ヘンリエッタは振り返った。「どういう意味?」

「まだはっきりは言えないけど、サイズや形状が既知のファージとはかけ離れてる。整合性が取れなくて何度もリトライしたけど、怪しい断片がいくつか混じってるんだ。」

ウィルが一瞬訝しげな表情を見せる。「とりあえずはデータを保管しておこう。今はこのD型微生物の衝撃を受け止めるだけで精一杯だからな。」

ヘンリエッタはコクリと頷き、「後で詳しく分析してみましょう。今はともかく……これが偶然でも奇跡でも、地球生命の“もう一つの進化”を目撃できるかもしれない。」

深海に揺れる光

その夜、ラボの明かりを落とし、ヘンリエッタは深海カメラが捉えた映像を一人見つめていた。緑がかった発光が波を打つように広がり、まるで深海の中で呼吸するかのようだ。
「選ばれなかった進化……なのかな。」

彼女の脳裏には、科学者としての冷静さと、未知へ惹かれる冒険心がせめぎ合う。もしこの発光がメッセージなら、私たちは何を伝えられようとしているのか。そもそも、D型アミノ酸生命なんて、絶対にあり得ないはずだった。

「なのに、目の前にいる――どうして?」

その問いに答えてくれるものは、まだどこにもない。
しかし、ヘンリエッタは微かな違和感を覚えていた。先ほどオットーが言いかけた「妙な粒子」。人工的な形にも見えたというウイルス様構造。もしそれが偶然やノイズの一言では片付けられないとしたら――この発見は地球生命の常識を破るどころか、人知を超えた何かの意図を暗示しているのかもしれない。

彼女はディスプレイを切り替え、再度アミノ酸の解析データを眺めた。右利き生命が紡ぐストーリーの始まりを感じながら、深海の闇へと視線を落とす。「次に踏み込むべきはこの場所。私たちがまだ知らない真実が、きっと海底に眠っている……。」

こうして、誰も想像しなかった“右利きの進化”が、黎明前の海に静かに広がり始めたのだった。読み手がいまだかつて目にしたことのないロマンと危機を孕みながら――。

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