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時差進化 - 第2話:選ばれなかった進化

深海調査船「オセアナ」の制御室には、未明の空気が漂っていた。前夜に確認された「右利きアミノ酸」の衝撃が消えやらぬまま、ウィル・ディアス船長は深海カメラの映像を何度も再生していた。画面に映る熱水噴出口周辺の海底では、微かな光を放つ微生物の群れが緩やかに漂っている。

「やっぱり不思議だな。」オットーがモニターを見つめながらつぶやく。「通常の深海生物なら、発光はここまで均一にならない。ましてや、右利きのアミノ酸なんて……」

「それこそが最大の謎よ。」ヘンリエッタ・サントスは、昨晩から満足に眠らず研究を続けている。「D型アミノ酸を持つ生物なんて地球上では選ばれなかったはず。なのに、どうして今ここで生き延びているの?」

ウィルはカメラのズームを調整し、発光する微生物の群れをクローズアップした。「もしかすると、酸素が少ない極限環境に逃げ込むようにして存続してきたのかもしれない。何億年も深海に閉じこもり、時間を止めたような進化を辿って……」

「時差進化、ってわけね。」ヘンリエッタは画面を凝視する。「左利きアミノ酸が主流になった地球で、彼らは取り残され、ゆっくりと進化速度を変えた。でも、ただの生き残りにしては、代謝があまりにも活発だわ。」

オットーがテーブルの上の分析レポートを手に取った。「それだけじゃなく、ほら、このファージらしき粒子の断片。夜中に観察した時より数が増えてるかもしれない。まるで……外からの刺激を受けて動き出したように見える。」

ヘンリエッタは心当たりを探るように首をかしげた。「私たちの観測機材が、彼らを“起こして”しまったのかな。もしそうなら、私たちが知らずに干渉してることにもなるわね。」

その時、通信機が鳴った。ラボで追加解析を進めていたスタッフからの連絡によれば、「右利き生命」と接触した微生物の一部が、やや変異を示し始めているという。つまり、鏡像異性体を持つ生物同士が、明らかに相互作用を起こしているのだ。

「左利き生命が、右利き生命由来の分子を取り込みかけている……?」ヘンリエッタの目が驚きに見開く。「理論上はあり得ないはずの立体化学の壁を、どうやって越えてるの?」

「それはこいつがカギかもな。」オットーは“奇妙にデザインされた”ファージらしき粒子の写真をヘンリエッタに見せる。「形もおかしいが、配列も不可解だ。まるで誰かが意図的に設計したような……」

ウィルは腕を組みながら二人を見渡した。「他のサンプルでも同じ粒子を確認できるか、調査を急ごう。もしこれが左右のアミノ酸世界を繋ぐツールだとしたら、研究者としては興味深いが、同時にリスクも大きい。」

船内のモニターには、依然として深海の光が揺れ続けていた。熱水噴出口からふわりと広がる緑がかった輝きに、ヘンリエッタは見惚れてしまう。
「選ばれなかったはずの進化……でも、今ここで再び息づいているなんて。彼らは私たちに何を見せてくれるのかしら。」

オットーも静かに呟いた。「場合によっては、地球そのものを変えるかもしれない。でもそれが悪い形で進む可能性も考えないとな。」

三人の視線の先、深海に広がる微生物の光は、まるで脈打つ鼓動のように明滅していた。まるで長い眠りから醒め、左右の境界を飛び越えようとしているかのごとく――。進化が停止した“別の時間”が、今まさに目を覚ましているのかもしれない。

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