君がいた夏
社会人になったばかりの時、仕事が終わると私は酒場に向かうのが好きで仕方なかった。銀座のオフィスから高円寺まで出て、大学時代の友達S君と待ち合わせの酒場によく行った。酒は一軒では済まず、二軒、三軒と続く。最後に辿り着くのは、新高円寺駅に近い<富士屋>という大箱の大衆酒場であった。私はまだ実家で暮らしていた。実家は国立市にある。<富士屋>まで辿り着いた時は、実家には帰らない。S君のアパートに雑魚寝である。
一時期私にゾッコンのガールフレンドがいた時は、彼女が仕事を終えてから社用車で<富士屋>まで来て、酔っ払って小上がりに寝ている私を甲斐甲斐しく国立まで送ってくれた。その頃私は飲むとすぐに寝てしまっていた。社会人になって往復三時間、バス→中央線→丸の内線→銀座線の通勤疲労に学生から会社勤めになったストレスも重なり、<富士屋>では飲み出すとよく寝てしまった。中央線でもよく眠った。銀座で酒を飲むと、電車で立って帰るのは嫌なので中央線の始発である東京駅まで歩き、座って国立駅まで帰るのが常であった。もちろん座ったら最後、まだ三鷹か、国分寺かとホームから駅舎に向かう階段をうつらうつら見ながら、気がつけば高尾で終電は終わりという悲劇が何度もあった。
S君はイケメンで人当たりの良い好人物であったから、学生時代からいつもガールフレンドもいたし、ガールフレンドのような女友達も絶えなかった。いつものように<富士屋>で飲んでいると、
「これから女呼ぶからさ」
と言って店の黒電話(もちろん携帯電話などまだ庶民は持っていない)を借りて、どこかに電話した。「来るってさ」
彼女が来たのは、ずいぶん後で私はまた小上がりに眠っていた。来たと言って起こされて紹介された彼女は、ひまわりのように明るく、テカテカして、同時の多くの女性が好んでいたボディコンのワンピースを着ていた。小柄で日に焼けて目鼻立ちのはっきりした彼女に濃い緑のボディコンはよく似合った。
私は25歳で彼女はおそらく22歳くらいだったと思う。<富士屋>に来るのが遅くなったのは、彼女の住まいが立川だったからだ。夜の九時に高円寺から呼び出して立川から来るのだから、彼女はよほどS君に惚れているのだろうと私は思った。
その頃から私は彼女のことを苗字でYさんと呼ぶようになった。
私がYさんと会う時は、いつもS君と一緒だった。だいたい<富士屋>へS君が呼び出してYさんが来て、飲み、S君のアパートで雑魚寝した。S君とYさんがどういう関係かは私は聞かなかったが、S君から若者特有の武勇伝のようなことを聞かされることはあった。それでもS君には本命のガールフレンドがいたのでYさんとの関係が深まることはなく、少し親しい飲み友達のような関係に落ち着いたように思う。
何年かしてYさんはお金が貯まったので、夢であった留学をすると、サンフランシスコへ旅立って行った。高知の宇和島から東京に出て専門学校を経て、大手の旅行代理店で勤務し、節約のために立川郊外のアパートに女友達と住んでいた20代の小柄でキャピキャピなYさんに、そんな野心があることを知り、その当時びっくりしたことを覚えている。
やがてYさんはサンフランシスコの語学留学先で知り合ったフランス人のOと結婚、一時期はフランスに住んでいたが、フランス語しか喋らない親類縁者との暮らしに嫌気がさし、夫婦でサンフランシスコに長く暮らすことになった。この間の出来事は手紙で知った。インターネットなどない時代だ。私は筆豆なので一人暮らしを始めてからは頻繁に手紙のやり取りをしたし、時々酔っ払って国際電話をしたりした。
夫のOは気さくなフランス人で、アメリカのテック企業のアジア市場担当になってからは、一人で東京へ出張に来たので、Yさん抜きでOと飲みに行ったりしてYさんの近況を聞いた。何年かして東京に赴任してきたOと一緒にYさんも帰国し、神楽坂で暮らすようになった。五十万円までは賃料を社宅として使えるとのことで外国人仕様の三階建ての豪邸を当然のように借りて暮らすようになった。Oを夫というよりは手下のように扱い、語学を生かして外資系企業で働くようになったYさんとは<富士屋>の頃にはないセレブ感があり、少し距離が広がったような気もしたが、酔っ払えばいつものYさんに戻った。
何年も経って、Oが会社を辞めて神楽坂でワインバーを開くことになった。Oはフランスの地元では、親が州知事をしているようなセレブであったから、ワインバーと言っても大々的にフランスの銀行から融資を受けて、ワイン輸入業といくつかのワインバーを一気に開店し、起業家として日本に骨を埋める決心をしたようだった。
Yさんは最初から起業には反対しており、Oに対しては、やるなら私は一切手伝わないし、生活レベルも下げるつもりはないと宣言していた。夫婦は東京に来てから頻繁に転居しており、ホームパーティーに呼ばれるたびに、住まいは豪華になり、千代田区番町の、エントランスのオートロックドアが二重にあるような高級マンションだったこともある。
Oが起業してしばらくして、新宿早稲田のマンションを転居した。Oに買わせたとのこと。こちらのマンションは外国人向けの高級マンションではなく、特別なところはない日本人の家庭向けマンションであったので、私はほっとした覚えがある。でもこの夫婦はやがて行き詰まるのではないかと思っていた。YさんのOへの接し方があまりにも一方的だったから。それが甘えだとしても、好意的に受け止める男は少ないのではないか。Oがこれ以上我慢できるとは思えなかった。
それから私も40代となり、家庭を持った友達とは会うこともなくなり、もう結婚しないだろうと思っていた頃に結婚し、翌年海と山のあるこの町にカミさんと猫と引っ越してきた。
ゴールデンウィークには、滅多にしないことだが、ホームパーティーを開いて何人かの知り合いを呼んだ。Yさんもその一人だ。Yさんは海が近いこの町をとても羨ましいがり、夏には女友達と二人で平日海水浴にやってきた。冒頭のモノクロームの写真は、この時撮った。服を着ていると痩せて見えるのに、中年女二人の水着姿は残酷だった。女子プロレスラーのようにしか見えないのでファイティングボーズをとってもらった。
その後、Yさんから連絡が来て、こっちで仕事はないかと言う。どうしたのと問うと、Oが浮気して相手が妊娠したから離婚した、多分そのショックで乳がんになった、早稲田から離れて海の近くで静養した、とのことだった。
たまたまカミさんの職場で人を探していたので、Yさんを紹介した。Yさんが今までしていた仕事とは全く違う領域でカミさんの直接の部下になるし給与も安いけど構わないと聴くと、構わないという。住んでいたマンションはローンを慰謝料としてOに払ってもらい、賃貸に出すから賃料も入るし、お金は問題ないとも。
Yさんは、この町からバスで三十分以上離れた秋谷に住まいを移した。住まいが落ち着いてからカミさんと招待してもらい、もてなしを受けた。時々この町のお店で三人で酒を飲んだ。YさんはYさんで秋谷の地元で持ち前の社交性を活かし、どんどん友達を増やしていった。
カミさんは仕事に関して妥協がない。根っからの学級委員、生徒会、体育会キャプテンの、自分に負荷をかけることを厭わない人間だ。人にもそれなりの負荷をかけるのであろう。Yが勤務先を離れるのにあまり時間はかからなかった。おそらく、カミさんとの職場でも関係性をうまく築くことができずショックだったのだろう、Yさんは私に連絡することなく秋谷も離れ、早稲田に戻った。カミさんの口ぶりを聴くと、私もそっとしておいた方が良いと思い、連絡することなくそのままとなった。
Yさんは早稲田に戻ってから、いくつか転職を繰り返し、東京に来てからいちばん気に入っていただろう映画祭の仕事に再度ついたようだった。SUPにフェスに飲み会に飼い犬に、いつもの社交的でパリピなYさんに戻ったようだった。ようだったと書くのは、時々facebookの投稿を見るだけしか私には近況を知る手段がなかったから。
今年に入って私はYさんの<友達>から外されていることを知った。私も450人いた<友達>を150人に最近減らしたばかりだから、<友達>を外されることは別に不思議だと思わない。10年前と違って<友達>を増やすことに興味ないし、facebookそのものもこの二、三年は、ほとんど使っていない。タイムラインを時々覗いても、同じ人たちしか利用していないようだし、見ているとイライラすることが多いし、病気や不幸の知らせを不用意に受けるのも気分が良くない。そして<友達>でない私も見られるコメントの中に、Yさんの癌が再発したらしいことを知った。
先週の土曜日、もう10年以上会っておらず、年賀状を送っても返信さえないS君からスマホにショートメールが届いた。
「知っているかもしれないけど、Yが早朝に亡くなった」
「そっか。知らなかったけど、そうかも知れないと思っていた。教えてくれてありがとう」私はそう返信した。
一日二日してfacebookのYさんのタイムラインを見ていると、<友達>でない私にも見られる設定で、Yさんの<友達>が彼女の闘病と死の詳細、葬儀や納骨の様子を投稿していてくれていた。その投稿の中に、Yさんが闘病中に残したnote.の記事もあった。
彼女が<idec>というハンドルをしばし使うのは、彼女のファーストネームの<H>をフランス人が発音できず、<ideko>と呼ぶらだといつか聞いたことがある。そして彼女の記事を読んで、彼女がなぜ私のこの住まいを見て羨ましがったかが理解できた。いつも日焼けしているように肌黒いYさんは、宇和島の生まれ育ちで、いつも海に囲まれていたからなのだ。
Adieu,Idec!