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第25走者 川谷大治:引きこもりと良寛さん

リレーエッセイ23「継続と変化」で、昭和の農業から工業への構造変化は統合失調症を、遅れて境界性パーソナリティ症を、平成の工業からIT産業への構造変化はうつ病を生み、さらには不登校~引きこもり青年(回避性パーソナリティ症)の問題は未解決のまま「8050問題」へと拡大し、そして令和は発達障害の時代になった、と指摘しました。今回は、社会に出ることが困難な人たちの灯りと支えになる良寛さんの生き方を紹介したいと思います。
 
 Ⅰ.はじめに
これまで良寛を「良寛さん」と呼んできました。いつ、どこで良寛のことを知ったのかははっきりしないのですが、いつからか良寛をさん付けして呼んでいます。中学校の教科書に載っていた良寛は父方の祖父に面影が似ていたことを覚えています。そして今、私も祖父の年に近づいて、良寛のことを考えるようになったのです。日本人は最後には良寛に戻るのでしょうか。哲学者の唐木順三は「良寛にはどこか日本人の原型のようなところ、最後はあそこだというようなところがある」と述懐しています。それで数冊ほど良寛本を読んでみました。村の子どもたちと一緒に毬をついて遊び、遊女とオハジキをする良寛はこんな詩を残しています。
此の生 何に似たる所ぞ 
    騰々として 且く縁に任す
    笑うに堪えたり 嘆くに堪えたり
    俗に非ず 沙門に非ず
    瀟々たる 春雨の裡
    庭梅 未だ筵を照らさず
    終朝 炉を囲んで坐し
    相対して また言無し
    背手して 法帖を探り
    薄か伝に 幽間に供す
(私の生き方は、何に似ているのだろう。物にとらわれず、自由に、ゆったりと時 を過ごし、すべて運に任せよう。私の生き方を、笑う人もいるだろうし、嘆かわしく思う人もいるだろう。私は俗人でもなければ沙門でもない。しとしと降りつづく春の雨の中、庭の梅は咲くのが遅く、まだあたりを明るくしていない。朝からずっと炉裏を囲んで座り、自問自答しつづけ、言葉も発していないでいる。そこで後ろ手に書帖を探し出し、習字の練習をして、書の奥深さを味わうとしよう。)
「非僧非俗」の良寛は酒・煙草を飲み、生活に足りないものがあるとすぐに友人を頼り、ときに村人と碁を打ち、自分のことを「大愚」と称しました。一方で良寛は、毎日托鉢をつづけ、ときに年寄りの肩を揉み、子どもたちと日がな一日遊び、庵に帰ると両脚を伸ばし、詩を書き、歌を詠んだ。そして晩年は熱い恋に震え、慈悲深い、そして矛盾の多い人(否、矛盾が矛盾と認識されない人と言った方が正確でしょう)でした。どのようにして良寛のようなパーソナリティが形成されたのか、彼の生涯を追ってみましょう。
 
Ⅱ.良寛の生涯
1.町名主の長男として生まれる
良寛は江戸の末期、1758年に新潟県の港町出雲崎に生まれました。新潟県は米どころで人口は江戸と肩を並べる豊かな(冬は雪で住むに相応しくない)国で、出雲崎は佐渡島の金銀の陸揚げ港として重要な土地でした。良寛の生まれた橘屋山本家は古くから出雲崎を統轄する町名主で回船問屋でもありました。さらに石井神社の神職をも兼ねる由緒ある名門の家に長男(栄蔵)として生まれたのです。
本家は跡取りがいないために両親は両養子で縁組しています。良寛の兄弟姉妹は四男三女。父以南は俳句に熱中し名主としての仕事に家を空けることが多かったといいます。栄蔵は「一人遊び」を好む内向的な気質の子どもで、後に良寛はこんな歌を詠んでいます。「世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我は勝れる」。寺小屋に通うようになり、本ばかり読みふけっている栄蔵を心配した母親は「たまには外に出て、思いっきり遊んで来なさい」と外に連れ出すのですが、気づくと庭灯籠の灯をたよりに『論語』を読みふけっていたというエピソードが残っています。十三歳から三峰館に入学し父の親戚の家に下宿して儒学を学びました。
2.出奔
十八になった時、父以南に呼び戻され名主見習いとして働くことになります。もともと世才のない栄蔵はその無能ぶりを「名主の昼行燈」とあだ名されました。世間の目は厳しい、役立たずという意味です。『沙門良寛全伝』には、若い頃の栄蔵の人柄を「性、魯直沈黙、恬澹寡慾、人事を物憂しとし、唯読書に耽る。衣襟を正して人に対する能わず、人称して名主の昼行燈息子という」と載ってます。ある時、出雲崎代官と漁民との間に諍いが起こり、その仲裁に栄蔵が入ることになりました。入ったのはいいのですが、栄蔵は漁民と話す時は漁民の味方になり代官を敵視し、代官と話す時はその反対の態度を取ったので、一向に両者の確執は解けないどころか一層激しいものとなったといいます。魯直とは「容易に妥協折衷のできない性質」を指します。名主の仕事は彼の性格と合わなかったのです。それで栄蔵は家を飛び出しました。「遁世の際」と詞書した「波の音聞かじと山へ入りぬればまた色変えて松風の音」の歌が残されています。良寛は、家には帰らず、あちこちを放浪していたのでした。
栄蔵二十二歳、曹洞宗の光照寺に身を寄せていた時に備中玉島の円通寺の住職国仙和尚が巡錫のついでに光照寺に寄り、「栄蔵は受戒剃髪して僧となり、大愚と号し、僧良寛となった」と言われています。出家は許され、出世しないうちは帰っては来るなと父に固く言われます。
3.沙門良寛~諸国行脚
良寛は二十二歳から三十四歳まで円通寺で修業します。当時の曹洞宗の修行は厳しく、禅寺では「一に作務、二に座禅、三に看経」と言われ、作務=労働が重視されました。初期仏教では労働にかかわらないことが原則ですが、禅寺では積極的に作務として取り入れ労働を義務付けています。修行僧の生活を詠んだ詩を残しています。
  円通寺に 来りてより
  幾回か 冬春を経たる
  門前 千家の邑
  乃ち 一人をも識らず
  衣垢づけば 手自ら濯い
  食尽くれば 城闉に出ず(訳:町に出て托鉢をする)
  嘗て 高僧の伝を読むに
  僧可は 清貧を可とせり
 托鉢(乞食)はお釈迦様も亡くなるまで行いました(禅寺では作務を行いますが、初期仏教では労働はご法度です。生産活動は一切行いません)。1783年、母親が亡くなります。知らせを聞いたのは1年後で故郷に戻ったかどうか判然としません。曹洞宗では修行に打ち込んでいる間は帰郷は許されません。1790年、円通寺で十年間修行した良寛は国仙和尚から印可の偈を授かりました。禅僧修行が修了したのです。良寛は他の雲水が座禅に打ち込んでいるのに、門前の子どもたちと遊び、子どもたちのいないときは農家の壁にもたれて居眠りしていたとも言われています。ですので、国仙和尚の詩偈の内容は以下のようなものでした。水上勉の訳で紹介します。
良よ。お前は一見愚の如くに見えるが、いまやお前が得た道は、どうころんでもゆるがぬひろい道だ。お前の到達した任運謄々の境地を、いったい誰がふかくのぞくことができようぞ。わしはお前の今日の大成を祝って、一本の杖をさずけよう。ありふれた自然木の木切れにすぎぬけれど、この杖は今日からお前が大事にしなければならないものだ。さあ、どこへでかけてもよい。到るところにお前の世界がある。どこでもよい、お前の部屋の壁にたてかけて、午寝するがよい。
良寛の気質・性格を見抜いた国仙和尚だからこそ書ける詩偈です。翌年の三月、師の国仙和尚は亡くなりました。印可を授かったのですから、どこかの寺の住職にありつけたのですが、何か仕事に就くのでもなく、良寛は和尚に頂いた杖を頼りに『荘子』の一冊の本を手にして放浪の旅に出ました。それは五年にも及ぶ長さです。荘子の思想は、「あるがままの無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものである」。この世の対立するあらゆるものを、根源に戻って一つにしてしまうという教えです。良寛は荘子とシンクロし、放浪を続け、文芸の道を歩いていくのです。
良寛が任運謄々で放浪を続けている間に、父以南は1795年に京都の桂川に身を投げて六十の生涯を閉じました。京都で営まれた父の49日の法要には良寛も参列しています。そして父の死によって帰郷を決意するのです。やっと帰れるのです。
4.帰郷
1796年、父の49日の法要が終わると、良寛は帰郷します。その時の気持ちを「古里へ行く人あらば言づてむ今日近江路をわれ越えにきと」と詠んで、良寛のウキウキする気分が伝わってきます。しかし、道元の「帰郷する莫れ」という教えを破って何故帰郷したのでしょうか。道元は出家前の姿を知っている村人たちから何かと中傷されては修行の妨げになるので帰郷を許さなかったのです。キリストも故郷のナザレには帰らなかった。それはナザレの人たちにとってキリストは「只の大工の倅」だったからです。また、良寛の帰郷は立派な寺の住職とか僧の位を得て故郷に錦を飾るものでもありません。「父の言葉に背く姿で帰還するのです」(松本)。橘屋は次男の由之が家督を継いでいました。良寛は生家を素通りして三里ほど離れた無住の庵に草鞋を脱ぎます。罪意識とか恥といった感情はあったのでしょうか。「寅さん」は柴又に帰る時に照れますね。
5.五合庵の良寛
そして五合庵に移ったのは帰郷後三年目でした。五合庵の生活は、八畳一間に鍋一つ鉢一つだけです。非僧と言いながら、僧衣を身につけ托鉢で里の家を回ります。托鉢にやって来る姿は子どもたちにとって不審者に見えたのでしょうか。石を投げつけたりします。良寛は「昼は狂児の欺くを忍び」「已みぬ復た何をか道わん、万事みな因縁」と詩を書いて、子どもたちからはやし立てられ、いらぬちょっかいをされて初めの頃は子どもたちを苦手にしていました。やがて、女の子が喜ぶ遊び、手毬やオハジキの相手をして一緒に遊ぶようになります。当時の子どもたちとの様子を詠ったこんな詩が残されています。「食を乞い了り 方に徘徊す 共に相語る 今また来ると」「此の時鉢盂を持し、得々として市廓に遊ぶ。児童たちまち我を見、欣然として相将いて来る」「ここに百草を闘わせ、ここに球児を打つ。我打てば渠かつ歌い、われ歌えば渠これを打つ。打ち去りまた打ち来りて、時節の移るを知らず」と。良寛と子どもたちはリズミカルに響き合ってます。しかし、働かずに子どもたちと遊んでいる姿を、村人から蔑まされ、「どうしてまたそうなのか」と尋ねられても、良寛はただおじぎをして、分からないと言ったといいます。そして良寛は多くの歌と詩を作りました。
6.貞心尼の来訪
1826年、病に臥せることもあって、年老いた良寛の山暮らしを心配した遍澄(良寛の身辺を世話しいていた人)の勧めで里に移住し、木村家の裏小屋に引っ越してきました。良寛六十九歳の年です。庵を提供した木村元右衛門は仏教信者で宗派は浄土真宗です。自力の曹洞宗と他力の浄土真宗。年老いた良寛にとってはただ有難いと思ったのでしょう、以下のような歌を詠んでいます。
草の庵に寝てもさめても申すことは南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
里の人たちとの交流も増え、盆踊りにも喜んで出ています。こうして良寛は地域に融合していきます。人生相談にも乗っていたようで「身の上に如何なる悪しきことありとも人を恨むまじ、我を慎み真心にさえ有るならば、遂には神仏も見なほし給ひなん」と書き与えています。
1827年、貞心尼が良寛を訪ねてきました。良寛七十一歳。貞心尼は三十歳の未亡人。貞心尼はその時の思いを「きみにかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬゆめかとぞおもう」と詠み、良寛は「ゆめの世にかつまどろみてゆめをまたかたるもゆめもそれがまにまに」と返しています。貞心尼の良寛に寄せるひたむきな思慕に心打たれますね。
1831年、良寛は亡くなりました。直腸がんだったと言われてます。良寛の死を看取ったのは貞心尼で、看取るあいだについ「生き死にの界はなれて住む身にも避らぬ別れのあるぞかなしき」ともらすと、良寛は力なく「うらをみせおもてをみせて散るもみぢ」とつぶやいたと言われます。
 
Ⅲ.良寛のパーソナリティ構造
良寛のパーソナリティ構造を知るのに押さえて置くべき人生上のポイントがあります。
①   一人遊びを好む内向的な気質の子どもとして生まれました。
② 代官と漁民の諍いに良寛は名主見習いとして対応し挫折します。容易に妥協折衷のできない性質(魯直)なので世渡りが下手だったのです。
③   挫折に耐えられず出奔し出家します。父伊南から僧として出世しない間は帰郷を禁じられました。
④   国仙和尚の詩偈に見られる性格描写。師の没後、杖を頼りに『荘子』の一冊を携えて放浪の旅に出ました。文芸の道(詩歌書)を一人、歩きました。
⑤   父の49日を終えて故郷に帰ります。
⑥   働かず、僧衣を着て乞食の生活を続け、文芸の道にふけり子どもらと遊ぶ。
⑦   老いらくの恋に落ちる。
良寛は自身のことを「我が性、逸興多し」と描写しています。いわば、世俗とは違う「変人」だと言ってるのです。それを示すエピソードは数多くここでは省きます。世才のない良寛は名主見習いとして世に出るのですが、それに失敗し、挫折します。よほど心を痛めたのか彼は出奔します。四年間も家に帰らず選んだ道は出家でした。名門の橘家の名を汚さないためには僧侶として名を上げるしかなかったからです。父はそれを許し、出世しない間は帰郷を禁じました。しかし仏教の修行にまい進するわけでもありません。座禅弁道するのでもなく、競争を避けて、農家の壁にもたれて昼寝する始末です。国仙和尚は良寛のもっている資質、しかしそれは俗世間では決して開かない、そして俗人には理解しがたいものであることを認識していました。それが印可の詩偈によく描かれています。
人と競い合う能力も持ち合わせていません。水上勉が看破したように「良寛には、それでその方がよいから、そうした方が正しい、といったような主張がないのである。あるものは、こうあるべきだといえるような己でない、たよりない自分を率直に見つめる自分であって、人に向かって、つまり兄弟子にも師匠にも、自己主張してみせる、そういう自身に含羞を感じるもう一人の栄蔵」がいたのです。
唯一、自分の力を表現できる能動的な生き方は文芸にあり、子どもらと請われると日がな一日遊びにふける童心の道だったのです。良寛の生き方は彼自身が自分のことを「非僧非俗」と言ってますが、正しくは「半僧半俗」でしょう。良寛は終生托鉢を実行しました。「托鉢は沙門の行であり、また伝統の生活の立て方であった」から、生活は僧の生き方になります。しかしそれも完璧にそうかというと半分そうなのです。生活に困ると友人に無心しました。それは「酒、肴、煙草、神馬藻、わさび、とうがらし、さい、米、野菜、茄子、みょうが、ちょう菜、梅干、大根、にんじん、ごぼう、油揚、朱唐紙、朱墨、かしゅう芋、げたの緒、油・・・・」と多種にわたっています。生活に困るとはばかることなく無心したのです。ここに他人の評価は気にしない良寛の姿が浮かびます。自分を貶めて無心するのではなく、子どもが「母ちゃん、お腹空いた」と乞うようなものです。
なぜ良寛は故郷に帰って来たのか。それまでは、父の期待する理想像でなかったから帰らなかっただけで、父が亡くなれば迷いもなく帰ったのです。また、上に示すように、生きていくためには何よりも食が安定しないといけないから、故郷に帰るとその苦労が少なくて済むからです。現実世界は利害得失、是非善悪の対立の世界です。対立すると逃げる道しか知らない良寛は、勝つか負けるか、負けて勝つか、そうした人生経験を積んでいません。否、逃げる力が強かったのでしょう。でも人生は全うしました。最後に素晴らしい恋をして死んでいったのですから。良寛の一生は「うらをみせおもてをみせて散るもみぢ」だったのです。
良寛は人と対立して如才なく乗り越える能力を持ち合わせていないと悟ったので、仏道で学んだ托鉢と友人に生きる糧を頼ったのです。しかしそれは良寛にとってそんなに大した問題ではないのです。良寛にとって文芸の道が最上のものなので、世間の些末なことは問題にならなかったのです。名誉にとらわれない良寛の生き方、ここに引きこもり青年の生きるヒントが隠されているのではないかと思うのです。
Ⅳ.さいごに
 長くお付き合いしていただいてありがとうございます。良寛のパーソナリティ構造を精神分析的に考察する余裕は残っていません。いつかどこかでそれをやってみたいと思います(本エッセイの5倍の枚数があれば可能でしょう)。良寛は矛盾の中に生き、名誉・富から離れ、文芸を心の糧としました。昼行燈と嘲笑され、世間で働くこともできず、子どもらと遊ぶのことを非難され、孤独は深いものでした。この孤独を良寛は詩歌書に込めたのです。
 
参考文献
1.  松本市壽:良寛の生涯 その心.考古堂書店、2003.
2.  水上勉:良寛.中公文庫、1986.
3.  吉本隆明:良寛.春秋社、1991.
4.  唐木順三:良寛.ちくま文庫、1989.(1971年に筑摩書房から「日本詩人選」20として刊行された)

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