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第25走者 川谷大治:引きこもりと良寛さん

  リレーエッセイ23「継続と変化」で、昭和の農業から工業への構造変化は統合失調症を、遅れて境界性パーソナリティ症を、平成の工業からIT産業への構造変化はうつ病を生み、さらには不登校~引きこもり青年(回避性パーソナリティ症)の問題は未解決のまま「8050問題」へと拡大し、そして令和は発達障害の時代になった、と指摘しました。今回は、社会に出ることが困難な人たちの灯りと支えになる良寛さんの生き方を紹介したいと思います。
 
 Ⅰ.はじめに
   これまで良寛を「良寛さん」と呼んできました。いつ、どこで良寛のことを知ったのかははっきりしないのですが、いつからか良寛をさん付けして呼んでいます。村の人たちは親しみを込めて「良寛さあ」と訛って呼んだらしい。中学校の教科書に載っていた良寛さんは父方の祖父に似ているなーと思ったことを覚えています。そして今、私も祖父の年に近づいて、良寛さんのことを考えるようになったのでしょうか。日本人は最後には良寛さんに戻ると言います。哲学者の唐木順三は「良寛にはどこか日本人の原型のようなところ、最後はあそこだというようなところがある」と述懐しています。それで数冊ほど良寛本を読んでみました。村の子どもたちと一緒に毬をついて遊び、遊女とオハジキをする良寛さんは晩年にこんな詩を残しています。

              此の生 何に似たる所ぞ 
    騰々として 且く縁に任す
    笑うに堪えたり 嘆くに堪えたり
    俗に非ず 沙門に非ず
    瀟々たる 春雨の裡
    庭梅 未だ筵を照らさず
    終朝 炉を囲んで坐し
    相対して また言無し
    背手して 法帖を探り
    薄か伝に 幽間に供す
     (私の生き方は何に似ているのだろう。謄々と、時を過ごし、すべて運に
      任せている。私の人生を、笑う人もいるだろうし、嘆かわしく思う人も        い るだろう。私は俗人でもなければ沙門でもない。しとしと降りつづく
     春の  雨の中、庭の梅は咲くのが遅く、まだあたりを明るくしていない。
     朝から ずっと炉裏を囲んで座り、自問自答し、言葉も発することもな
     い。そこで 後ろ手に書帖を探し出し、習字の練習をして、書の奥深さを
     味わうとしよう。)

  「非僧非俗」の良寛は酒・煙草をこよなく愛し、生活に足りないものがあるとすぐに友人を頼り、ときに村人と碁を打ち、自分のことを「大愚」と称しました。一方で良寛は、毎日托鉢をつづけ、ときに年寄りの肩を揉み、子どもたちと日がな一日遊び、庵に帰ると両脚を伸ばし、詩を書き、歌を詠んだ。そして晩年は熱い恋に震え、慈悲深い、そして矛盾の多い人(否、矛盾が矛盾と認識されない人と言った方が正確でしょう)でした。どのようにして良寛のようなパーソナリティが形成されたのか、彼の生涯を追ってみましょう。
 
Ⅱ.良寛の生涯
   1.町名主の長男として生まれる
    良寛は江戸の末期、宝暦八年(1758)に新潟県の港町出雲崎に生まれました。新潟県は米どころで人口は江戸と肩を並べる百万人都市で豊かな国(冬は豪雪)で、出雲崎は佐渡島の金銀の陸揚げ港として重要な土地でした。
良寛の生まれた橘屋山本家は古くから出雲崎を統轄する町名主で回船問屋でした。さらに石井神社の神職をも兼ねる由緒ある名門の家に長男(栄蔵)として生まれたのです。本家は跡取りがいないために両親は両養子で縁組しています。良寛の兄弟姉妹は四男三女。父以南はプライドが高いうえに橘家を守り通す才覚はなく、高札の移転を巡ってライバルの京屋に敗北し、後には俳句に熱中し名主としての仕事に家を空けることが多かったといいます。
     栄蔵は「一人遊び」を好む内向的な気質の子どもで、後に良寛はこんな歌を詠んでいます。「世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我は勝れる」。幼児の頃の性格は「人見知りする内気な子供で、利発ではあったが物後をひどく気にする、神経質な性格であったらしい。余りに気をかけるので判断に迷い、それが人々の目には愚鈍に見えたわけである」(谷川)と言われ、その血は母秀子から受け継いでいると言われてます。
    寺小屋に通うようになり、本ばかり読みふけっている栄蔵を心配した母親は「たまには外に出て、思いっきり遊んで来なさい」と外に連れ出すのですが、気づくと庭灯籠の灯をたよりに『論語』を読みふけっていたというエピソードも残っています。また、七、八歳のころの栄蔵にこんな逸話が残っています。あるとき、叱られた栄蔵は父親を上目づかいににらみ「親を上目でにらむ奴は、鰈になるぞ!」と咎められました。しばらくして、栄蔵の姿が見えなくなり、家族みんなで探したところ、海岸で海面を見下ろしながら物思いにふけっている栄蔵がいました。母に抱きしめられた栄蔵は「わしはまだ、鰈になってはいないかえ」と漏らしたと言います。鰈になると信じ込んだ良寛、父の言葉で生じたイマギナチオを検討する精神の働きに問題があるとしか言いようがありませんね。良寛は、イマギナチを客体化して「そんなことないわい」と言い放つことができないのです。それはあたかも純なる“白木の念仏”を見ているかのようです。そして、十三歳から三峰館に入学し父の親戚の家に下宿して儒学を学ぶことになります。

2.出奔
    十八になった時、父以南に呼び戻され名主見習いとして働くことになりました。もともと世才のない栄蔵はその無能ぶりを「名主の昼行燈」とあだ名されます。西郡久吾の『沙門良寛全伝』には、若い頃の栄蔵の人柄を「性、魯直沈黙、恬澹寡慾、人事を物憂しとし、唯読書に耽る。衣襟を正して人に対する能はず、人称して名主の昼行燈息子といふ。父母之を憂う」と載ってます。着物の前ははだけ、動作はのろい、しかも世事には疎く、本ばかり読んでいる、と厳しい。ある時、出雲崎代官と漁民との間に諍いが起こり、その仲裁に栄蔵が入ることになりました。入ったのはいいのですが、「代官には漁民の言い分をいい、漁民には代官の言っていることをそのまま伝えたから収拾がつかなくなり」、両者の確執は解けないどころか一層激しいものとなったといいます。魯直とは「容易に妥協折衷のできない性質」を指します。名主の仕事は彼の性格と合わなかったのです。それで栄蔵は家を飛び出しました。敗北感はいかほどだったのでしょうか。「遁世の際」と詞書した「波の音聞かじと山へ入りぬればまた色変えて松風の音」の歌が残されています。良寛は4年間、家には帰らず、あちこちを放浪していたというのです。
    そして、栄蔵二十二歳、曹洞宗の光照寺に身を寄せていた時に備中玉島の円通寺の住職国仙和尚が巡錫のついでに光照寺に寄り、「栄蔵は受戒剃髪して僧となり、大愚と号し、僧良寛となった」と言われています。出家は許され、出世しないうちは帰っては来るなと父に固く言われ、出雲崎を離れます。

3.沙門良寛~諸国行脚
     良寛は二十二歳から三十四歳まで円通寺で修業します。当時の曹洞宗の修行は厳しく、禅寺では「一に作務、二に座禅、三に看経」と言われ、作務=労働が重視されました。初期仏教では労働にかかわらないことが原則ですが、禅寺では積極的に作務として取り入れ労働を義務付けています。修行僧の生活を詠んだ詩を残しています。

  円通寺に来ってより
  幾回か冬春を経たる。
  門前は千家の邑
  すなわち一人だに識らず。
  衣垢づけば手自ら濯い
  食尽くれば城闉に出づ。(訳:町に出て托鉢をする)
  かつて高僧伝を読むに
  僧可は清貧を可とす。

 托鉢(乞食)はお釈迦様も亡くなるまで行いました(禅寺では作務を行いますが、初期仏教では労働はご法度です。生産活動は一切行いません)。天明三年(1783)、良寛二十六歳のとき母親が亡くなります。知らせを聞いたのは1年後で故郷に戻ったかどうか判然としません。曹洞宗では修行に打ち込んでいる間の帰郷は許されないとも聞きます。
 ところで、良寛の円通寺での十二年間の修行中のエピソードが少ないのが気になります。水上勉は「玉島で聞いた良寛逸話」のエピソードを紹介しています。
 どういうわけか良寛は、玉島でも、乞食のような姿で子供とあそんだらしい。そのとき、どこかに盗難事件があって、取りしまっていた役人が通りかかり、みすぼらしい良寛を捕らえて、お前が盗んだのだろうといった。良寛は名も名のらず弁解しなかった。ひったてられることになった。ところがこの時、名主風の男がそこへきて、良寛のおちついた態度に感心したものだから、なぜ、役人に名をいわず、こたえもしないのかときいた。良寛はいった。自分にもうたがわれるようなところがあったから反省して、自然に任せようと思ったのだ、と。こんなことがたびたびあって、ある日、円通寺の山麓の西山というところの農家の壁にもたれて、良寛は立ったまま眠っていたそうだ。怪しまれて、また役人につかまったが、この時も弁解はしなかった。
 自然の成りゆきに任せるという生き方は、漁民と役人に交渉時にもとった態度です。水上勉も指摘するように「良寛には、それではその方がよいから、そうした方が正しい、といったような主張がないのである」。この対人関係の持ち方は生来のものだといってよいと思います。父を上目遣いに睨んだエピソードも、実のところ、そうではなかったのではないか、つまり父以南のイマギナチオではなかった、と思うのです。ですから、良寛の幼少時からの対立を避ける態度は周りには愚鈍にみえたのではないでしょうか。その気質を国仙和尚は見抜いていました。
    寛政二年(1790)、円通寺で十年間修行した良寛は国仙和尚から印可の偈を授かりました。禅僧修行が修了したのです。国仙和尚の詩偈の内容は以下のようなものでした。水上勉の訳で紹介します。

        良よ。お前は一見愚の如くに見えるが、いまやお前が得た道は、どう        ころんでもゆるがぬひろい道だ。お前の到達した任運謄々の境地を、いっ      たい誰がふかくのぞくことができようぞ。わしはお前の今日の大成を祝っ      て、一本の杖をさずけよう。ありふれた自然木の木切れにすぎぬけれど、      この杖は今日からお前が大事にしなければならないものだ。さあ、どこへ      でかけてもよい。到るところにお前の世界がある。どこでもよい、お前の       部屋の壁にたてかけて、午寝するがよい。

    良寛の気質・性格を見抜いた国仙和尚だからこそ書ける詩偈です。この詩偈は出雲崎帰郷後の数々のエピソードを理解する上で欠かせない内容だと思うのです。翌年の三月、師の国仙和尚は亡くなりました。素晴らしい師と出会ったのですね、良寛は。
     さて、良寛は印可を授かったのですから、どこかの寺の住職にありつけたのですが、何か仕事に就くのでもなく、和尚に頂いた杖を頼りに『荘子』の二冊の本を手にして放浪の旅に出ました。それは五年にも及ぶ長さです。荘子の思想は、「あるがままの無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものである」。この世の対立するあらゆるものを、根源に戻って一つにしてしまうという教えです。良寛は荘子とシンクロし、放浪を続け、文芸の道を歩いていくのです。
     三十四歳になった良寛の諸国の放浪。土佐を旅していた時に近藤万丈と出会ったと言われてます。この頃の良寛の動向を教える資料は少なく、唯一江戸の国学者の近藤万丈は『寝覚の友』に次のように載せています。長い引用になりますが、とても重要なので引用します。

        おのれ万丈、よはひいと若かりしむかし、土佐の国へ行しとき、城下よ
り三里ばかりこなたにて、雨いとうふり日さえくれぬ。道より二丁ばかり 右の山の麓に、いぶせき庵の見えけるを、行て宿乞いけるに、いろ青く面やせたる僧のひとり炉をかこみ居しが、食ふべきものもなく、風ふせぐべきふすまもあらばこそといふ。雨だにしのぎ侍らば、何かは求めんとて、強てはド借りて、小夜ふくるまで相対して、炉をかこみ居るに、此僧初にものいひしより後はひとこともいはず、座禅するにもあらず、眠るにもあらず、口のうちに念ぶち唱ふるにもあらず、何やらの物語しても、只微笑するばかりにて有しにぞ。おのれおもふに、こは狂人ならめと、其夜は炉のふちにて寝て、暁にさめて見れば、僧も炉のふちに手枕してうまく寝居ぬ。扨明けはてぬれど、雨は宵よりもつよくふりて、立出べきやうもなければ、晴れずともせめて小雨ならんまで宿かし給はんにやといふに、いつまでも也ともと答へしは、きのふ宿かせしにもまさりて嬉しかりし。ひの巳のこく過る頃に、麦の粉湯にかきまぜてくはせたり。扨この庵のうちを見るに、たゞ木仏のひとつたてると、窓のもとに少なきおしまづきを居て、其上に文二巻置ゐるより外ハ、何ひとつたくはへもてりとも見えず、このふみ何の書にやとひらき見れば、唐刻の荘子也、そが中に此僧の作と覚し有て、古詩を草書にてかけるがはさまりある、から歌ならはねバ、其巧拙はしらざれども、その草書哉、目を驚かすばかりなりき。よて笈のうちなる扇ふたつとふでゝ賛を乞しに、言下に筆を染ぬ、ひとつは梅に鶯の絵、ひとつはふじのねを絵がきしなりしが、今は其賛の末に、かくいふものハ誰ぞ、越州の産良寛書スと有しをば覚え居ぬ。
  
 万丈は最初、「ひょっとしたら狂人ではないか」と良寛の印象を伝えています。良寛は念仏を唱えるのでもなければ、座禅をするのでもありません。立ち居振る舞いは、破れ庵に一体となり、しかも孤独を苦に思わないのでしょうか、ことさらにおべっかを言うのでもなく、内的世界がそのまま表れているのです。そして、水上勉が「国仙和尚の教えどおり、杖を手ばなさず、流浪にあけくれながら、経をよむよりも、詩作に励んでいたことが証される」と指摘しますように、そこには文人良寛がいたのです。
 良寛が任運謄々で放浪を続けている間に、父以南は寛政七年(1795)に京都の桂川に身を投げて六十の生涯を閉じました。京都で営まれた父の四十九日の法要に弟の香とともに良寛も参列しています。そして父の死によって帰郷を決意するのです。待ちに待った帰郷、やっと帰れるのです。

4.帰郷
 寛政八年(1796)、父の四十九日の法要が終えて、良寛は三十八歳で帰郷します。その時の気持ちを「古里へ行く人あらば言づてむ今日近江路をわれ越えにきと」と詠んで、良寛のウキウキする気分が伝わってきます。しかし、道元の「帰郷する莫れ」という教えを破って何故帰郷したのでしょうか。道元は出家前の姿を知っている村人たちから何かと中傷されては修行の妨げになるので帰郷を許さなかったのです。キリストも故郷のナザレには帰らなかった。それはナザレの人たちにとってキリストは「只の大工の倅」だったからです。また、良寛の帰郷は立派な寺の住職とか僧の位を得て故郷に錦を飾るものでもありません。「父の言葉に背く姿で帰還するのです」(松本)。橘屋は次男の由之が家督を継いでいました。良寛は生家を素通りして三里ほど離れた無住の庵に草鞋を脱ぎます。罪意識とか恥といった感情はあったのでしょうか。
 当時の様子を松本市壽氏は、『北越奇談』巻六を参考に次のように述べています。

   出雲崎の北方三里の郷本海岸にあった空庵に、ある日旅の僧がやって来てその隣の家にことわって宿泊するようになった。そこを本拠に知覚の村を托鉢して歩き、その日に食べるものがいただけたら帰ってきて、食物があまればほかの乞食とか鳥や獣にも分け与えるという生活態度だった。そんな様子で半年が過ぎると、周辺のこころざしある人は奇特な生活態度に感心して、ましな衣服を送る者も出てきた。それらを喜んで受けたが、余分は寒さに困っている人に与えるといったふうであった。

 そうこうするうちに彼が名主橘屋の文孝(栄蔵)に違いないと噂になって、弟の由之も連れに参ったのですが、良寛は聞かず、またどこかへ居なくなったと言います。

5.五合庵の良寛
 そして五合庵に移ったのは帰郷後三年目。が、定住したのは四十八のときでした。五合庵の生活は、八畳一間に鍋一つ鉢一つだけです。非僧と言いながら、僧衣を身につけ托鉢で里の家を回ります。托鉢にやって来る姿は子どもたちにとって最初不審者に見えたのでしょうか。石を投げつけたりします。その様子を良寛は「昼は狂児の欺くを忍び」「已みぬ復た何をか道わん、万事みな因縁」と詩に書いて、子どもたちからはやし立てられ、いらぬちょっかいをされて初めの頃は子どもたちを苦手にしていました。やがて、女の子が喜ぶ遊び、手毬やオハジキの相手をして一緒に遊ぶようになります。当時の子どもたちとの様子を詠ったこんな詩が残されています。「食を乞い了り 方に徘徊す 共に相語る 今また来ると」「此の時鉢盂を持し、得々として市廓に遊ぶ。児童たちまち我を見、欣然として相将いて来る」「ここに百草を闘わせ、ここに球児を打つ。我打てば渠かつ歌い、われ歌えば渠これを打つ。打ち去りまた打ち来りて、時節の移るを知らず」と。良寛と子どもたちはリズミカルに響き合ってます。

 子どもらと てまりつきつつ この里に 遊ぶ春日は 暮れずともよし

 しかし、働かずに子どもたちと遊んでいる姿を、村人から蔑まされ、「どうしてまたそうなのか」と尋ねられても、良寛は唯々首を捻るだけだったといいます。そして良寛は多くの歌と詩を作ると同時に、常人には理解しがたい奇行も多く、解良栄重氏は『良寛禅師奇話』に書きとどめています。(良寛は五合庵の近くに庄屋を勤めた解良家と親しくされていた。当時、栄重は子どもだった。)
  師は常々酒が好きだった。しかし、酒に酔って乱れたことを見たことはなかった。また、農家のおやじや村の老人など、だれとでもお金を出し合い、酒を買って飲むことも好きだった。お互いに盃のやり取りで飲んで、どちらか余計にのむというものではなかった。
とか、
  師が国上山の五合庵に住んでいたとき、炉の隅に小さい壺を置いて、俗に言う醤油の実を貯えて置き、食べ残しのものがあったときはこの壺の中に入れていた。そして、夏の暑い日もこれを食べた。人が訪ねてきたときなども、これを食べるように勧めていた。さすがに客はそれを食べることはに堪えられなかった。師は落ち着いていて、臭くて穢れていることに意を介さないようだった。師はこれについて「虫が生じたとしても、食べ物を椀に盛れば、虫は自然に出ていってしまう。食べるには何も害がないよ」と。
あるいは、
 師はよく人のために病気の看病をして、食事や起き臥しを親身になって面倒をみた。また人のために按摩をしたり、灸をすえることもあった。人がきて、「あした、私に灸をしてください」といったが、「あしたはあしたのことだ」といって、はっきりしてやるとは言われなかった。安請け合いは信頼がないためであろうか、それとも、人間の生き死にというものは明日すら分からないためだろうか。
またこんな話も、
 師はあるとき、茶会に呼ばれたことがあった。そのときは濃茶であった。師はこれを飲みほしてしまったが、ふと横を見たら次の客がいた。しかたがないので、口の中に残っていた茶を茶碗の中に戻して次客に回した。その人は、念仏を唱えて飲んだ、と話された。
またまたこんな話も、
 師が五合庵に住んでいたころ、竹の子が厠の中に生えてきた。師はろうそくの火で屋根を焼き、竹の子が伸びられるようにしてやろうとした。しかし、そのために火が全体にまわってしまい、厠がやけてしまったという。
どうでしょうか。
 師は常日頃、喜びや怒りの表情を顕わにはされなかった。早口で話をされることを聞いたこともなかった。食事のときや、立ち居振る舞いなども緩やかで、一見愚かな人のようであった。
さいごに私の大好きな話を
 手まりをついたり、おはじきをしたり、草花を摘んだりして、村の子どもたちとともに遊ぶ。地蔵堂の村を過ぎると、子どもたちが必ず後をついて来て「良寛さま一貫!」という。師は驚いてうしろに反りかえる。また「二貫!」と言えばまた反る。子どもたちはこれを見て喜んで笑う。長じてから庄屋を継いだ富取倉太が幼いころ家に来たことがある。師はそのとき一緒に泊まっていたが、彼に言った。「お前の村の子どもたちは変な習癖をもっている。これからはこんなことのないようにしてもらいたい。私はもう老人だから、はなはだ難儀なことなのだ」と。私はそばで聞いていて師に尋ねた。「お師匠さん、なぜそんなに苦労してまで遊んでやるのですか。自分からしなければよいではありませんか」。師はおっしゃった。「してきたことは、やめられないのだよ」と。
 (頭註)これは、ある年、人が物を競り売りするところを、たまたま師が通りかかって見た時のことである。競り人が大きな声でその値段をいうのを師が聞いて、あまりの高い値に師は驚き、反りかえった。こうしたことがあってから、子どもたちにこの戯れをするようになったという。
如何でしたか。良寛の心をより深く理解できたのではないでしょうか。五合庵には文化十三年(1816)まで住んで、より里の家に近い乙子神社の草庵に移ります。

6.貞心尼の来訪
 文政九年(1826)、病に臥せることもあって、年老いた良寛の山暮らしを心配した遍澄(良寛の身辺を世話しいていた人)の勧めで里に移住し、木村家の裏小屋に引っ越してきました。良寛六十九歳の年です。庵を提供した木村元右衛門は仏教信者で宗派は浄土真宗です。自力の曹洞宗と他力の浄土真宗。年老いた良寛にとってはただ有難いと思ったのでしょう、以下のような歌を詠んでいます。

  草の庵に寝てもさめても申すことは南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 里の人たちとの交流も増え、盆踊りにも喜んで出ています。こうして良寛は地域に融合していきます。人生相談にも乗っていたようで「身の上に如何なる悪しきことありとも人を恨むまじ、我を慎み真心にさえ有るならば、遂には神仏も見なほし給ひなん」と書き与えています。
 1827年、貞心尼が良寛を訪ねてきました。良寛七十一歳。貞心尼は三十歳の未亡人。貞心尼はその時の思いを「きみにかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬゆめかとぞおもう」と詠み、良寛は「ゆめの世にかつまどろみてゆめをまたかたるもゆめもそれがまにまに」と返しています。貞心尼の良寛に寄せるひたむきな思慕に心打たれますね。
 1831年、良寛は亡くなりました。直腸がんだったと言われてます。良寛の死を看取ったのは貞心尼で、看取るあいだについ「生き死にの界はなれて住む身にも避らぬ別れのあるぞかなしき」ともらすと、良寛は力なく「うらをみせおもてをみせて散るもみぢ」とつぶやいたと言われます。
 
Ⅲ.良寛のパーソナリティ構造
 良寛のパーソナリティ構造を知るのに押さえて置くべき人生上のポイントがあります。
①   一人遊びを好む内向的な気質の子どもとして生まれる。
② 代官と漁民の諍いに良寛は名主見習いとして対応し挫折する。容易に妥協折衷のできない性質(魯直)なので世渡りが下手だった。
③   挫折に耐えられず出奔し出家する。
④   国仙和尚の詩偈に見られる性格描写。師の没後、住職の道は選ばず、杖を頼りに『荘子』の一冊を携えて放浪の旅に出る。
⑤   父の四十九日を終えて故郷に帰る。
⑥   働かず、僧衣を着て乞食の生活を続け子どもらと遊び文芸の道を歩く。
⑦   老いらくの恋に落ちる。
 良寛は自身のことを「我が性、逸興多し」と描写しています。いわば、世俗とは違う「変人」だと言ってるのです。それを示すエピソードを『良寛禅師奇話』からいくつか紹介しました。
世才のない良寛は名主見習いとして世に出るのですが、それに失敗し、挫折します。よほど心を痛めたのか彼は出奔します。四年間も家に帰らず選んだ道は出家でした。名門の橘家の名を汚さないためには僧侶として名を上げるしかなかったからでしょうか。父はそれを許し、出世しない間は帰郷を禁じました。しかし仏教の修行にまい進するわけでもありません。座禅弁道するのでもなく、競争を避けて、農家の壁にもたれて昼寝する始末です。あげくには盗人と間違えられ、弁解することもなく、それを受け入れます。国仙和尚は良寛のもっている資質、しかしそれは俗人には理解しがたいものであることを認識していました。それが印可の詩偈によく描かれています。
 自己主張することもなく人と競い合うこともありません。水上勉が看破したように「良寛には、それでその方がよいから、そうした方が正しい、といったような主張がないのである。あるものは、こうあるべきだといえるような己でない、たよりない自分を率直に見つめる自分であって、人に向かって、つまり兄弟子にも師匠にも、自己主張してみせる、そういう自身に含羞を感じるもう一人の栄蔵」がいたのです。
 唯一、自分の力を表現できる能動的な生き方は文芸にあり、子どもらと請われると日がな一日遊びにふける童心の道だったのです。良寛の生き方は彼自身が自分のことを「非僧非俗」と言ってますが、正しくは「半僧半俗」でしょう。良寛は終生托鉢を実行しました。「托鉢は沙門の行であり、また伝統の生活の立て方であった」から、生活は僧の生き方になります。しかしそれも完璧にそうかというと半分そうなのです。生活に困ると友人に無心しました。それは「酒、肴、煙草、神馬藻、わさび、とうがらし、さい、米、野菜、茄子、みょうが、ちょう菜、梅干、大根、にんじん、ごぼう、油揚、朱唐紙、朱墨、かしゅう芋、げたの緒、油・・・・」と多種にわたっています。生活に困るとはばかることなく無心したのです。ここに他人の評価は気にしない良寛の姿が浮かびます。自分を貶めて無心するのではなく、子どもが「母ちゃん、お腹空いた」と乞うようなものです。
 なぜ良寛は故郷に帰って来たのか。それまでは、父の期待する理想像でなかったから帰らなかっただけで、父が亡くなれば迷いもなく帰ったのです。また、上に示すように、生きていくためには何よりも食が安定しないといけないから、故郷に帰るとその苦労が少なくて済むからです。現実世界は利害得失、是非善悪の対立の世界です。対立すると逃げる道しか知らない良寛は、勝つか負けるか、負けて勝つか、そうした人生経験を積んでいません。否、逃げる力が強かったのでしょう。でも人生は全うしました。最後に素晴らしい恋をして死んでいったのですから。良寛の一生は「うらをみせおもてをみせて散るもみぢ」だったのです。
 良寛は人と対立して如才なく乗り越える能力を持ち合わせていないと悟ったので、仏道で学んだ托鉢と友人に生きる糧を頼ったのです。しかしそれは良寛にとってそんなに大した問題ではないのです。良寛にとって文芸の道が最上のものなので、世間の些末なことは問題にならなかったのです。名誉にとらわれない良寛の生き方、ここに引きこもり青年の生きるヒントが隠されているのではないかと思うのです。
Ⅳ.さいごに
 長くお付き合いしていただいてありがとうございます。良寛のパーソナリティ構造を精神分析的に考察する余裕は残っていません。いつかどこかでそれをやってみたいと思います。良寛は矛盾の中に生き、名誉・富から離れ、文芸を心の糧としました。昼行燈と嘲笑され、世間で働くこともできず、子どもらと遊ぶのことを非難され、孤独は深いものでした。この孤独を良寛は詩歌書に込めたのです。
 
参考文献
1.  松本市壽:良寛の生涯 その心.考古堂書店、2003.
2.  水上勉:良寛.中公文庫、1986.
3.  解良栄重:良寛禅師奇話(馬場信彦解説).野島出版、1995.
4.  唐木順三:良寛.ちくま文庫、1989.(1971年に筑摩書房から「日本詩人選」20として刊行された)
5.  川内芳夫:良寛と荘子.考古堂、2002.
6.  吉野英雄:良寛.アートデイズ、2001.
7.  谷川敏朗:良寛の生涯と逸話.1984.

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