第24走者 川谷大治:継続と変化
岩永先生と稲員先生のバトンを受けて。
岩永先生は「期待」と「愛情」のバランスのいい親子関係を少年ジャンプ掲載の『ジョジョの奇妙な冒険』と『ドラゴンボール』を題材に、前者ではシンクロする血統と社会の「期待」を軸に、後者では孫悟空の子どもの孫悟飯のアイデンティティ確立を述べられ、稲員先生はお釈迦様の悟った仏法を今日まで継続しているかのような摩訶不思議な「日本仏教」について少し触れられました。
子どもは親の思い通りには育ちません。結果的に、親の期待に逆らって育つこともあるし、親の期待を取り入れて育つこともあるでしょう。子に期待しない親もいるかもしれませんね。この親子関係の機微を吉田松陰は「子を思う親心 子知らず」、「親思う心にまさる親心」と表現しました。私は幼い頃から母親に「子を思う親心 子知らず」と聞かされて育ちました。今思えば、「ほんとかヨ」、「ホンマかいな」と笑ってしまいます。母は結婚前に山口県下関で過ごしたこともあって、この吉田松陰の言葉にかぶれて、祖父との関係を私との関係に投影していたのです。話が変な方向にぶれ出しました。元に戻しましょう。
継続と変化
古来、日本では親は子に「家」を絶やさないように期待し、かつそれを求めました。また親にとっても「家」の存続は先祖の「期待」であり「至上命令」でした。親にとって「家」の継続は最も優先される重要項目だったのです。そのため、子どもが生まれなければ、あるいは男の子が生まれなければ、養子を迎えて家を継続させることが親に課された命令なのでした。この家の継続中心主義に、ことに地方の「家」に打撃を与えたのは、1945年の第二次世界大戦による日本の敗北です。戦後の復興のために中学を卒業すると、青田買いされた若者は関西、中部、関東へと駆り出され、跡継ぎだけが地域に残ったのです。子どもは複数人いても出生率は1になったわけですから、人口を維持するには出生率が2.07は必要なので、80年後の今、地方は空っぽになって、かつての賑わいは消えてしまいました。必然的に「家」の多くは消滅の道を辿っているのです。私の生まれた田舎では、同級生60人のうち地元に残ったのはわずか8人。今は小学校も中学校も残っていません。
「限界集落」という言葉が騒がれたのはいつのことだったでしょうか。「限界集落」という概念は長野大学教授の大野晃氏が1989年に提唱し、その2年後の1991年にバブルが弾けました。限界集落とは55歳以上の人の人口比率が50%を越えている場合と定義されています。地方から人がいなくなるのはもうすでに待ったなしです。
一方、若者を青田買いした関西、中部、関東はどうなっているのでしょうか。先祖代々の「家」は継続されているのでしょうか。2023年の統計では東京都の出生率は0.99でした。東京も「家」を継ぐという文化はなくなっているのではないでしょうか。福岡県を見てみましょう。福岡県には九州の他県から移住する人が多く、2020年には人口500万人を越え、2024年には北海道を抜いて都道府県人口ランキングで第8位に浮上しました。しかし、人口は2020年から年に1万人以上が減少していっています。福岡県でも福岡市だけが残り、他の地域は限界集落への道を辿りつつあるのです。
地方ではもはや「家」の継続は不可能になっています。業歴100年以上の老舗企業は全国で4万社を超え、世界でも日本は“長寿企業大国”だそうです。ただ近年、事業環境はめまぐるしく変化し、少子高齢化の影響もあって、「老舗の看板」を守って生き残るのは難しい局面にあるようです。
もう少し個別に見てみましょう。農業を見ますと、農業従事者は2015年175.5万人が2023年には116.4万人と激減しています。平均年齢も67.1歳から68.7歳へと高齢化が進み、農家の「家」を守る後継者不足は目も当てられない状況へと進んでいます。漁業も同じです。他方、少子高齢化で「医療・福祉」の分野の就業者は増えて、「建設業」の就業者は減少しています。
昭和の時代は「農業国から工業国へ」という構造変化の時代でした。そして平成に入って、ITに代表される「知識産業」の到来へと移行し、令和はその特殊化への道へと進んでいます。もはや「家」を継続させるという「期待」や「命令」はなくなり、子どもたちは自由を得ましたが、その過程で、精神科臨床でも大きな変化が起きています。農業から工業への構造変化は統合失調症、遅れて境界性パーソナリティ症を、工業からIT産業への構造変化はうつ病を生み出し、さらには不登校~引きこもり青年(回避性パーソナリティ症)の問題は未解決のまま「8050問題」へと拡大しています。そして令和は発達障害の時代です。ある学者は農薬をその原因として挙げていますが、原因を論じるには複雑過ぎて、私の力が及ぶ問題ではありません。しかし以下のことは指摘できます。発達障害の子どもたちのパーソナリティの社会化は停滞し、社会適応はいよいよ困難になっていくでしょう。
この不登校~引きこもり青年の問題解決のためにお釈迦様の初期仏教と大乗仏教を輸入した日本仏教の変遷を辿ることで、私たち日本人の問題解決の思考特性を抽出し、一つの答えを出そうと考えたのが今回のエッセイです(昭和と令和の差異をテーマにした阿部サダヲ主演のTVドラマ『不適切にもほどがある』は興味深い)。根が深く、しかも原因は「これだ!」と一つに限定できないのですが、どこまで深められるかやってみたいと思います。最後に、「良寛さん」の生き方を紹介して、社会に出ていくことに不安を感じる人たちの将来に1つのヒントを提供したいと思っています。
1. 仏教の日本化
さて、仏教はどのような過程を辿ったのでしょうか。一言で言いますと仏教の日本化です。かつて私はこの問題を『北山理論の発見 錯覚と脱錯覚を生きる』(創元社、2015)の中で「精神分析の日本化―いいとこ取りと取り捨て」というタイトルで論じました。「日本ではなんでも外からとり入れて、かつ本家本元よりもいいものをつくってしまう」のです。この日本化を芥川龍之介の短編小説『神々の微笑』を参考に説明しましょう。以下は「精神分析の日本化」からの抜粋です。
主人公は戦国時代のカソリックの宣教師オルガンティノ。実在した人で、日本での布教は着実に実を結び、信徒も何万かを数えるまでに増えているのにもかかわらず、彼の心は憂うつで落ち着かなかった。
彼は「デウス様よ、私にはどうしても、この国をキリスト教国にする自信がありません。この国には山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力が潜んでおります。この国の霊と戦うのは、思ったよりもっと困難です。・・・・・勝つか、それともまた負けるか」と嘆いた。そこに老人の格好をした日本の神が現れて「あなたの負けです」と語りかける。「デウスは全能の御主だから」と反論する彼に日本の神はこういう。「かつて仏教もこの国に来て変質してしまった」と言って、中国の哲人である孔子、孟子、荘子、そして文字さえもが、日本に取り入れられてすべて変えられてしまったではないかと例を一つ一つ挙げていった。
それでもオルガンティノは「今日は侍が二十三人帰依した」と抵抗したが、「帰依したということだけなら、この国の大部分の人々は仏教に帰依しています。でもこの国というのは、結局、教えの本質を変えてしまい、この国に同化させてしまうのです。このわれわれの力は、破壊する力ではありません。つくり変える力なのです」と止めを刺した。
司馬遼太郎は小説『花神』で儒教を例に日本化を「いいとこ取り」と「取り捨て」と呼びました。「日本の場合、中国の体制の真似はせず、在来の封建体制のままで変則的に受け入れた」。変則的とは「武士に儒教を学ばせたが、体制の原理があくまでも『武』である以上、儒教の原理である『文』と基本的に相容れない。結局は、日本風にいいとこ取りにした儒教になった」、つまり、武士たちは四書五経を学んだが、その基本的原理である「武」に合わない部分は取り捨てた、というのです。
仏教の日本化を中村生雄(2011)は『肉食妻帯考』の中で「日本的な仏教の『成長』とインド的・中国的な仏教からの『逸脱』は、表裏一体の現象」だと指摘しました。司馬遼太郎の「いいとこ取り」と「取り捨て」を「成長」と「逸脱」と呼び変えたのです。葬式仏教と批判される日本の仏教は「逸脱」してしまって、現在、初期仏教とは似ても似つかないものにつくり変えられました。これらのタームは日本化の“光と闇”の部分を説明されており十分に納得できるものです。
2.日本の仏教の「逸脱」
仏教は6世紀中頃に日本に入ってきました。最初は渡来人が持ち込み、厩戸皇子(聖徳太子)を中心に国の政策として輸入されました。こうして興った奈良仏教では、僧侶は国家公務員で名誉あるポストを求めて集まった人たちで構成されていました。奈良仏教は学問を修めるのが主な目的で、仏教の輸入は国家仏教政策によるものだったのです。ここで最初の「逸脱」が起きました。初期仏教では、僧は世俗的な善、つまり名誉と富と快楽を捨てた出家した人たちから構成されていました。日本化では仏教の教えを有難いものとして取り入れつつ厳しい修行と名誉を捨てることは取り捨てられたのです。
桓武天皇は都を京都に移し、奈良仏教は後に「南都六宗」と呼ばれ、平安仏教の時代へと移ります。そこに2人のスーパースター、最澄と空海が登場しました。2人は腐敗した奈良仏教に見切りをつけ、共に唐に渡り、帰朝後、それぞれ天台宗と真言宗という2つの宗派を興しました。主に国や皇室、貴族を対象としていましたが、一部のエリートたちだけが入門できる奈良仏教と違って、最澄と空海は悟りを求める人たちに門戸を開きました。そして武士が台頭し、時代の中心は貴族から武士へと流れていきます。『平家物語』は没落しはじめた平安貴族と平家の滅亡を無常として描きました。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」という冒頭の文章は誰もが知る名文です。鎌倉時代に入って、『平家物語』は琵琶法師によって語られ、仏教は民間民衆へと広がっていきます。そして日蓮、親鸞、道元の3仏教者が登場するのです。3人は仏教をどのように日本化していったのでしょうか、見てみましょう。
1)日蓮(日蓮宗):法華経こそが唯一の釈迦の教えであり、お題目(南無妙法蓮華経)を唱えると救われると説いた。
2)親鸞(浄土真宗):仏僧の妻帯を許した。他力本願。南無阿弥陀仏を唱えると浄土に行けると説いた。
3)道元(曹洞宗):ただひたすら座禅を組むことで悟りに至ると説いた。世俗に交わらず厳しい修行を課した。
鎌倉仏教の逸脱は易行(厳しい修行はしない)、選択(救済方法を一つ選ぶ)、選修(ひたすら打ち込む)の三つです。江戸時代に入ると、江戸幕府の管理の下、宗派の対立は安定した時代に移ります。仏教は民衆の生活に密着したものになり、寺請制度によって民衆を管理する役目を担い、葬式は僧侶が行ない、潜伏キリシタンを除けば仏教徒がほぼ100%を占めました。江戸仏教は幕府に骨抜きにされ、各宗派は寺院をランク付けし、それに沿った指揮命令系統が設定されました。ブッダの教えはカースト制を否定し、サンガは上下関係を設けず平等を重視し話し合いをモットーにしましたが、日本仏教はその教えからはかなり逸脱したものへと移っていったのです。
寺は「家」を継ぐために妻帯を認められ、中でも修行の厳しい曹洞宗においてでさえ妻帯が自明のことになったのです。そして僧侶は妻帯し、子に跡を継がせ、厳しい修業なしの葬式仏教が一般化したのです。しかしその中でも名僧、奇僧は多く生まれました。一遍、明恵、円空、道宗、一休、盤珪、白隠、正三、良寛、才市らです。
平成の終わりに用事ができて東京に旅した時のことです。羽田空港に降りてモノレールで浜松町に着いたとき、駅の通路に一人の雲水が立っていました。懐かしくなって100円玉を鉢に入れようとしたら、後ろのサラリーマン風情の中年男から「偽坊主だゾ」と声かけられました。偽だろうが真だろうが私は100玉を渡しました。私の幼い頃、軒先に雲水が立つと、お布施を出すのが常でした。そして、お布施は雲水のためではなく、お釈迦様は徳を積む機会を私たちに与えてくださるのだと教えられました。雲水する修行僧も最近は見ませんね。
日本はどんどん変化していってます。時代の変化についていけずに窮地に追いやられると私たち日本人は引きこもろうとします。私の住む福岡市で、町内会に入るのを拒否した若い夫婦家族が現れました。清掃活動や各種のイベントに駆り出され、近所づきあいするのが苦痛なのでしょうか。国は地域を捨て、そして若者も地域を捨てようとしているのです。それは、あなたの親が戦後の国策で地域を捨てさせられたために地域のありがたさを忘れて不自由さから解放された一面だけをよしとしたからなのです。私は地域を捨てることがどんなに不幸なことなのか経験上知っています。祭りや祝い事で地域は互いに支え合い絆を強くしていました。故郷を離れなかったら、地域に迷惑をかけない限り、地域の人たちに互いに支えられます。国策によって日本に地域がなくなり、引きこもり青年は地域のありがたさもわからないまま地域の存在すら知らないまま空しく過ごしているのです。こうして見ると、博多の文化は救いの一つになりますね。博多山笠は他の地域から流れてきた者も拒まずに入れてくれるからです。そうしないと伝統を守れないからなのでしょうが流民を受け入れたのも事実です。
引退した年寄りは地域で支えられず、最後に生きる場所は施設しか残されていません。私の大先輩が夫婦二人で老人ホームに入りました。終の棲家に施設を選んだのです。そして今選択した自分のミスを嘆いています。地域を無くした付けが回ってきたとしか考えられません。これもあれもすべて、地方を見捨てた国策のせいなのでしょうか。そうとばかり言えません。私たち日本人の縮み志向も問題かもしれません。いいえ、自由と自分勝手をはき違えた結果かもしれません。解決策はあるのでしょうか。難しいかもしれませんが、私は良寛さんの生き方にヒントが隠されていると思うのです。
この稿のさいごに
このエッセイも5000字を越えました。要領よく書けないのが私の欠点の一つです。仏教の日本化について説明し、そして、世間から引きこもっている人たちのあるべき姿を「良寛さん」を例に論じようとしたのですが枚数を越えてしまいました。それで一旦ここで終わりにして、「良寛さん」については「リレーエッセイ25」として続けたいと思います。
第二次世界大戦で敗北した日本は「家」の継続よりも日本の復興を優先し、後継者一人を地域に残し、残りの者は関西・中部・関東へと集めて、働き手として大移動を敢行しました。その結果、「家」は消滅し、それはそれで「家」のしばりもなくなり自由を手にしたのですが、地方の衰退、引いては日本の危機を招きつつあるのも事実であります。「日本化」が私たちに教えることは、仏教は「いいとこ取り」と「取り捨て」によってつくり変えられた結果、片仮名や平仮名と違って、衰退してしまったのです。そして、アメリカ経済を真似た日本の経済復興もお金を手に入れ貧乏から脱出し、1990年までは「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と高く評価されましたが、現在、日本は日本仏教と同じ道を辿りつつあります。思えば日本人は、良くも悪くも、盆栽、活花、ガラケーのように、「内」に縮んでしまう傾向を持っています。これも日本化の一つの特徴です。再び日本が貧乏になり、「清貧の思想」が復活するのであれば、日本衰退も決して悪いものとばかりは言えないでしょう。そこでモデルとして登場するのが良寛さんなのです。心の復活には良寛さんの思想がカギを握っていると思うのです。