第14走者 渡邉恵里:3の寄り添いと3から始まる世界
今、8月からの放課後等デイサービス立ち上げ準備で慌ただしいので、
「しばらくリレーエッセイはお休みします」と言っていたのですが、
岩永先生のエッセイを読むと、どうしても書きたくなってしまい、
バトンを受け取りました。
「3」という数字で私の頭にまず浮かんだことは、「3の法則」です。
小児科で勤務していた時、
「このお母さん、産後うつじゃないかな」「虐待にならないかな」
という予感がした場合に外来で母子をみていくタイミングとして、
まずは3日後(最大5日以内)のフォローを入れる。
その後安定していても、3週間後に今の体制を評価する。
さらに、3か月後に再評価する。
と、3の法則でフォローすることを指導医から教わりました。
特にこれは、私が周産期医療に関わっていた時に意識して行っていました。
私はNICUで働いていた時、精神科通院中の妊婦さんなど、
心の問題を抱えているお母さんのサポートに力を入れていました。
産後うつは、ホルモンの影響で、産後1ヶ月頃に発症しやすいのですが、
既に赤ちゃんを出産したばかりの退院時に兆しがみられている場合があります。
そのため、当時勤務していた病院では、産後うつ病を予防するために、
退院前にエジンバラ産後うつ病質問票のチェックを行い、
点数が高い人には、退院後3日目に電話訪問を行う体制を作りました。
退院後、不安定になる頃に電話訪問を行い、寄り添うことで、
産後1ヶ月時点での産後うつ病の発症を減らせたという結果も出ました。
「3」のタイミングは、心が不安定になりやすいのかもしれません。
そこをどう支えられるか、ということが精神衛生上重要です。
次に浮かんだのは、川谷医院のマークです。
このブログのアイコンにも使っていますが、赤、濃い緑、グレーの3つの丸でできています。
これは、「I(私)、You(あなた)、Other(他の人)」を指すと、川谷から聞きました。
岩永先生もエディプスコンプレックスの話を書かれていましたが、
人間関係、こころは、私、あなた、他の人がいて、発展していくわけです。
あなたがいるから私を私と認識し、
他の人がいるから、嫉妬やコンプレックスといった複雑な感情が生まれてきます。
精神療法は自己理解を深めていく場で、3という数字はその基本になるので、川谷医院のマークは3つの丸だということです。
「3つの丸」からの連想になりますが、
今年から、土曜日の午後、川谷医院のホールを使って、
小学校1~4年生の子どもたちと子ども哲学をしています。
子ども哲学とは、あるテーマに対して子どもたちが自由に考え、
お互いに対話しながら考えを深める哲学対話の子ども版です。
先日、「ぼくを探しに」という絵本を読んで、哲学対話を行いました。
この絵本はピザのピースのような一部分が欠けた丸い形の「ぼく」が、
かけらを探して旅する話です。
ぼくはようやくかけらを見つけるのですが、コロコロ転がりすぎて、
欠けていた時にできていたお花やミミズとお話することができなくなったため、
かけらとお別れして、また欠けた自分のままで旅を続ける、というお話。
私はこの絵本を小学生の時に初めて読み、そんなに何度も読み返したわけではなかったものの、
なんとなくこの話が心の中にあって、
友達作り、恋愛、就職、資格、結婚、出産…
色んな場面でふと思い出してきました。
今回、子どもたちの自由な発想を聞いていると、
私がこれまで一度も考えたことのなかった意見が沢山出てきて、
驚かされることが多く、とても楽しい時間でした。
その中で、ある子の発言。(掲載許可を得たのでご紹介します)
「ぼくは、かけらのことを自分だって思ってたんじゃない?
『ぼくはきみのかけらじゃないからね』って言われて初めて、
かけらは自分じゃないって知ったんだと思う」
これ、まさに、二者関係の成立の場面です。
子どもは母子一体の状態で生まれてきます。
最初は、お母さんと自分が別個の存在だという認識はありません。
それが少しずつ、お母さんは自分とは違うことを考えていて、自分とは違う行動をとる、
つまり別個の人格を持った「他者」なんだということを認識していくわけです。
その話を私は精神分析という学問を勉強していて知ったのですが、
子ども哲学で集まった子たちは、この絵本を読みながら、気づいたということです。
すごい発見。
ちなみに、「ぼくはいつ欠けたのか」という疑問が出て、
みんな、「最初は丸かった」という考えでした。
大人の私は、最初から欠けていた、と思っていたので、これも衝撃的な発想。
生まれたばかりの赤ちゃんは万能感に満ち溢れた状態。
泣けばおっぱいが差し出されて、ぐずれば抱っこして眠りにつく。
それが、自分の発達に合わせて欲求も増えてくるうちに、思い通りにいかないことと出会い、
自分は万能的な存在ではない、世界の中心ではないことに気づくのです。
「ぼくは、最初は丸かった」というのはつまり、
最初は万能的な存在だったという、これもまた私が勉強して学んだことを、
子どもたちは感覚的に知っていたということかもしれません。
どうやって欠けたのか、というのもまた驚きの意見が沢山出て、
深い話にただただ感心するばかりのあっという間の1時間でした。
子どもたちの考える力は、知識に邪魔されている私たち大人よりもものすごい力を持っているものです。
のびのびと引き出せる場所をできるだけ確保したいものです。
ちなみに、「ぼくを探しに」は、川谷医院の待合室に置いてあります。
子どもの時に私が出会った絵本なので、アンティークですが、
よかったらお手に取って、哲学の時間をお楽しみください。
それでは、この辺で次の走者にバトンをお渡しします。
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