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第33走者 川谷大治:かぐや姫の二つの世界ー天上界と人間界―

 杉本先生の『竹取物語』にラリーします。『竹取物語』は『源氏物語』の「絵合」の巻に「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁に・・・・」と書かれているとおり、紫式部の活躍した時代よりも古い作品です。その下りを瀬戸内寂聴の訳でご紹介しましょう。

    これはなよ竹の節々を重ねたように代々伝わった古い物語で、特におもしろい節もないのですけれど、かぐや姫がこの世の濁りにも汚れず、月世界にはるかに上がっていってしまった宿縁は、気高くてすばらしく、云々・・・・。

『竹取物語』のあらすじは皆さんご存知のようにかぐや姫が、竹の中から生まれ、竹取の翁夫婦に育てられて(生い立ち)、5人の貴公子と帝の求愛にも応じず(つまどい=求婚)、月の世界に帰っていく(天の羽衣)、の3つの部分から成っています。杉本先生は『竹取物語』を以下の3点から分析されています。①女性から見た、男性像の破壊願望、②父目線の物語、娘への執着、③翁は強盗?「竹取物語」の作者は男性のようです。①と②は頷けますが③はどうでしょう。竹取翁は赤ん坊をかっさらってきた誘拐犯でしかも強盗だったのか。月の世界からかぐや姫を迎えに来た使者は翁にこう告げます。川端康成訳(『現代語訳 竹取物語』)で紹介します。

汝、愚かなる者よ、お前はごく僅かばかりの功徳を積んだによって、そのお礼にもと、ほんの暫くの間だけ、かぐや姫を汝のところに降してやったのに、汝はもうそんなにも長い間、しかもまたそんなにもたくさんの金をさずかって、今ではもうお前はまるで以前とは別人のような立派な境遇になれたではないか。いったいそのかぐや姫は、ある罪をお犯しなすったによって、汝の如き賤しき者のところに、暫く身をお寄せになったのである。その罪が、今はもう全く消え果てたので、それでこうして今わしがお迎えにやって来たわけである。

 物語では、月の世界で罪を犯したかぐや姫はその罰として人間界に降され、刑期が終わったので月の使者が迎えに来たことになっています。もとになる事件があったのではないかと杉本先生は推理するのですね。それを題材に架空の物語にしたのではないかと。竹取物語では、

    翁はこの子を見附けてから後は、竹を取りに行くと、よく、その竹の節毎に黄金が入っている竹を見附けることが多かった。

とあります。天上人からすると姫を預かってくれるお代賃になるのですが、杉本先生の仮説は全く根拠のないものではありません。「つまどい」の中で大伴御幸大納言はかぐや姫から「龍の首の珠」を持参するように言われ、それに応えられなかった大納言は悔し紛れに「大体かぐや姫という大盗人が、われわれを殺そうとして企んだことなのだった」と罵るのです。竹取の翁は竹の中から黄金を見つけては裕福になっているのですから、巷では、よからぬ噂もたったのだと思います。火のないところに煙は立たない、とも言いますし。

 さて、話は変わって、この竹取物語を精神分析の臨床の中で取り上げられたのは慈恵医科大学名誉教授牛島定信先生です。慈恵医科大学に栄転される前の福岡大学精神医学教室ご在籍の1987年の論文です。本エッセイでは、牛島先生の「かぐや姫コンプレックス」を紹介して、次に、かぐや姫の住む二つの世界を比較しながら、精神科臨床におけるかぐや姫の今日的意義について考えてみたいと思います。


1.「神経性無食欲症にみるかぐや姫コンプレックス」(季刊精神療法13巻3号、1987)

 牛島先生の論文の症例は、他の力動の混入する度合いが少ないという理由で軽症例の神経性無食欲症の2例です。治療経過中に母子分離が進むと、「1人自分の部屋にこもって、真夜中、ワンワン泣いて疲れると、しばらくやすんではまた泣き出す」といった光景が見られ、この大泣きが牛島先生の琴線に触れたようです。

『竹取物語』に戻って、「つまどい(求婚)」から3年後、かぐや姫は月夜の晩には

ふと或る春の初めから、かぐや姫は月が美しく出ているのを見ては、平生よりもなにかひどく物思いに耽るようになった。(月の顔を見るのはよくないことだと諫められると)ともすればまた、人の居ないところでは、月を見てひどく泣いているのであった。

そして、七月十五日になると、一層その物思いはひどくなります。なぜそんなにかぐや姫は悲しいのか次第に明らかになってきます。ここの展開はうまいですね。川端康成は「読者は、かぐや姫の悲しいのは、あまり今までに、沢山の人々を振って振って振りぬいてきたので、そのあとの人間としての悲しみであろうと思う。けれど、実はそうではなく、その後には更に、一層大きな悩みがひかえているのである」と解説します。しかし後に詳しく述べますが、かぐや姫は振った男の悲しみは分からない性質なのです。なのでその罪悪に苦しむことはないのです。八月の十五日近くの月夜の晩には、ひどく泣いて、人目もはばからず泣くのです。

このかぐや姫と症例の大泣きに臨床的な意義を見出し、牛島先生は密接な母子関係の本体は母親と祖父の密接な関係の反映であると直観したのです。つまり、患者はおじいちゃんの世界に住んでいたこと、その背後には母体の中の宝物に対する貪欲な欲求とそれに対する罪意識が隠されていること、それは消化管妊娠空想とそれに伴う葛藤があることを見出したのです。節のある竹は消化管(大腸)を象徴しています。最後に、その葛藤が解決されると父親と母親を中心にした核家族が出現すると同時に、患者は家庭外に同姓同年配との同性愛的関係を発展させるようになることを指摘されました。治療的介入によって祖母・母親・子どもの関係から父親・母親・子どもへと移行するのですね。

 消化管は夢や絵の中ではしばしば「階段」としても描かれ、その奥に大切な物が保管されているとか、階段を上り社殿に辿り着くといったストーリーが実は母親のお腹の中にいる妹や弟への嫉妬を表わしていた症例を私も経験しています。このお腹の中の宝物(仮想された弟や妹、さらには父親のペニス)をわがものにしようとする貪欲さとそれに伴う葛藤をM・クラインは早期型エディプス・コンプレックス呼びました。

 竹取物語では罪の内容は触れられていませんが、かぐや姫が月の世界で犯した罪が次第に見えてきました。なぞ解き仕立ての『竹取物語』は単なるおとぎ話では済まされない、深いなにものかがあるようです。皆さんはどうお考えになりますか。私の考えは後程。


2.かぐや姫の住む世界

かぐや姫の名前を川端は「『輝夜姫』、あるいは『赫映姫』で、夜も輝く、あるいは照り映えるという意味であろう」と推測しています。かぐや姫とは「光り輝く姫」という意味なのですね。

   翁は、それを家の中から外へ出さず、大事に大事を重ねて可愛がり育てた。そのうちにこの子の容貌の清らかに美しくなってゆくこと、そのために、家の中は暗いところもなく光輝くようであった。

こうして大事に育てられたかぐや姫を「天下の男という男は、高貴な者も卑賤な者も区別なく、皆一様にどうかしてこのかぐや姫を手に入れたいものだ、一ト目でも見たいものだと、もうその評判を聞いただけで、うっとりとして心を燃やしていた」。しかしかぐや姫は言寄る男たちをすべて却けてしまいます。「それは一個の男女闘争史、人間闘争史のようにも見えてくる」(川端)。

    これはいろいろの人間の型を見せた、一篇の人情詩とも見えてくるのである。即ち、車持皇子のような大ボラ吹きの人間も、この世におれば、また阿部御主人のようなお人よしの少し抜けた人もこの世の中にいるのである。また、その前の、石作皇子のような、怪しからんインチキ人物も世の中にいるのである。その中に、翁のような好人物もいる。そして、それらが皆、わがかぐや姫を取り囲んで何ものかを狙っているのである(川端)。

このような人間界で育ったかぐや姫自身は何を求めているのでしょうか。勅使に対してかぐや姫は「国王のお言葉に背いた者でしたら、いっそ早くお殺し下さい」と強く言いのけ、帝から官位をちらつかされた翁には「宮仕えはいたさない考えでございます。それを、是非に、無理にと仰有いますならば、わたくしはもう消えてなくなってしまいます。それとも、いったいは御宮仕えをいたしまして、あなたにお位の下がるのを待って、それで死んでしまうばかりです」とはねつけました。何かにつけてイマギナチオして受動感情に隷属するのが人間界です。そして受動的欲望に支配されて苦しむのが私たち人間の宿命なのです。

 一方、天上界はどのような世界なのでしょうか。天の羽衣を着ると、一切の煩悩がなくなってしまと云います。

    月の世界の人々は、非常に美しい人々でございまして、その上、そこでは年が寄るということもございませず、また何一つ心配をするということもございません。

天上界は人間界と違って四苦八苦(生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦)は存在しないというのです。それに対して人間界は煩悩に満ちた汚い穢れ多い世界です。

ところで、地球で育ったかぐや姫には天上界の人たちと違って人情が育ちます。天人が天の羽衣を着せかけようとすると、姫は「暫く待て」と言い、せかす天人に姫は「人情のないことを云うものではない」と言って帝にお手紙を書くシーンがあります。欲望を滅却した天人には喜びも悲しみもありません。お釈迦様もそれを求めて出家したのでした。

つまり、天上界は涅槃の世界を象徴しているのです。日本に仏教が伝来したのは欽明天皇13(552)年と言われています。『今昔物語』の巻一ではお釈迦様のご降臨から始まります。かぐや姫のように、天上界から人間界にお降りになるのです。面白いのは、お釈迦様が天上界から人間界に生まれるときに「五衰の相」が現れるところです。その五衰の相とは①天人は瞬きをしないのに瞬きをする、②天人の頭上の花鬘は萎まないのに萎む(余談ですが、NHK教育テレビ番組の『はなかっぱ』は頭に花が咲く河童の話です)、③天人の衣には塵がつくことがないのに塵や垢がつく、④天人は汗をかかないのに脇の下から汗が出る、⑤天人は自分の座を変えることがないのに、その座にじっとしていようとせず、すき気ままな場所に座る、という相です。こうして人間界に生まれるときに誰を父に、誰を母にするかお考えになります。そして今のネパールの釈迦族の王のもとに生まれるのですね。出産シーンは「夫人が樹の前にお立ちになって右の手を挙げ、樹の枝を引き取ろうとしたとき、右の脇の下から太子がお生まれになった。大いに光をお放ちになる」と描かれています。高貴な人は、光の君もそうですが、光を放つのですね。

 天人界は、一切の煩悩がなくなり、死ぬことも誕生することもない涅槃の世界なのです。人間界と違って浄らかな世界(浄土)です。それなのに、なぜかぐや姫は罪を犯したのでしょうか。お釈迦様は欲望に苦しむ私たち人間を救済するために降ってきました。かぐや姫は罪を作って月の世界から追放されたというのは解せませんね。消化管妊娠空想を抱くことなどないわけです。

3.精神科臨床におけるかぐや姫の今日的意義

 天上界は涅槃の世界で人を困らせるようなことはしないはずなのにかぐや姫は罪を犯して月から追放されて人間界に降ってきました。そして刑期を終えて再び天の羽衣をまとい月に帰るのです。いったい彼女に何が起きたのでしょうか。

 「つまどい」の中の「御狩の幸」の章で、帝のお使いを手ぶらで帰すのですが、かぐや姫は、

   「若しわたくしの申し上げることが、帝のお言葉に背いているというのでしたら、いっそ、そういうわたくしを早くお殺しなすってくださいませ。」

    と、なんと云っても、云うことを諾かないのである。この女官は帰って、帝にその由を奏上した。帝はそれを御聞召して、

   「ははあ。その心が多くの人を殺したのだな。」

 帝は、人に従わない強情な性格が災いのもとだと直感して、翁を呼んで「まさか、その方がそのような不躾な育て方を致しはすまいの」と仰せられます。帝はすべての人間を一蹴するかぐや姫の行動を「氏か育ちか」と問うのです。川端康成は次のように述べます。

竹取物語には求愛はある。が、恋愛は遂に一つもない。いや恋愛はおろか、本当の意味に於いて、人間の心と心とがぴったりと合う、そういう親愛と交渉は一つもないのである。

 ここに至って、ようやく、人間界および天上界でのかぐや姫の罪作りが見えてきました。天人のかぐや姫は他者の気持ちが分からないのです。人間界に降って竹取の翁夫婦に育てられて、人間関係の機微、つまり人情は分かる程度には成長しました。しかし、かぐや姫と人間との間には深い溝があるように思います。スピノザの人間を人間たらしめる「感情の模倣」がかぐや姫にはできないのです。そのモデルとして太宰治の『人間失格』から引用します。

  第一の手記

つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当がつかないのです。プラクティカルな苦しみ、ただ、めしを食べたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、・・・・・考えれば考えるほど、自分にはわからなくなり、自分ひとり全く変わっているような、・・・・・そこで考え出したのは、道化でした。・・・・・おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。・・・・・自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。・・・・・

 かぐや姫は翁夫婦に大事に育てられたので道化をしなくても生きていけました。しかし、かぐや姫には振られて苦しむ男たちの心情は分からないのです。ただ翁夫婦の愛のお陰で、翁や媼、そして帝の別れに悲しむ心理を慰めようとする手紙は書けました。それも天の羽衣を着るとすっかり消えてしまうのですけれど。

 つまり、かぐや姫は「半人半天」なのではないでしょうか。かぐや姫の昇天は、天人は人間界で生きることは叶わない、月に帰るしかない、ということを意味しているのだと思います。人間界で生きようなどと欲望することは土台無理なことなのです。天人の迎えがなければ、かぐや姫はもっと多くの罪を犯したのではないかと思います。人情のない月の世界にかぐや姫は帰れましたが、それはそれで、天上界の人たちとうまくやっていけるかどうかわかりません。牛島先生の論文発表の頃には、妹いじめが原因で地球に追放されたという仮説も議論されました。確かに私も経験したことがあります。かぐや姫の月の世界における罪とは半人の部分にその原因があったのではないかと思うのです。天人は死なないので、月の世界で人殺しはしていません。かぐや姫は生来的に恋愛ができないのですから、それが月の世界で犯した罪なのだと思います。竹取の翁は、人間界で男どもの求愛を受けるように次のように諭します。

    凡そ人間というものは、この世に生まれた以上は、男は女と結婚するもので、また女は男を契るものなのじゃ。これが人間の規則というものなのじゃ。またそうしてこそ、始めて一家が栄え一門が増えるというものなのですわ。

天人なのに人間の子として生まれ、「感情の模倣」ができない人がこの人間界で生きていく道があるのでしょうか。それを『竹取物語』は教えてくれません。反社会性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害を持つ人は共感能力を持ち合わせていません。また、自閉スペクトラム症の人たちも人間関係の構築に苦労します。言わば、かぐや姫と同じ病理を持ち合わせていると言えるでしょう。彼らにとって人間界で生きていくことは苦労が多いでしょう。それを教えてくれるのが村田沙耶香の『コンビニ人間』です。ネタバレに注意しながらあらすじを述べますと、子どもの頃から変わり者で人間関係は希薄、恋愛経験も皆無だった主人公の物語です。主人公はこの人間界で「人真似」からはじめて、常人を演じ続け、就職かコンビニ店員かという二者択一の中で、コンビニで働くという使命を感じて、この人間界で生活していくのです。そして彼女を救ったのは物事を客観的にとらえる力でした。『コンビニ人間』から教わることは、私たち臨床家は、彼らの生きづらさを十二分に理解し、自分たちの物差しで判断せずに、彼らにとって理性の役割を担うことではないかと思うのです。

 さいごに、今日のかぐや姫コンプレックスとは「感情の模倣」が生来的にできない人たちの生き辛さを表わしているのではないかと思います。

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