規範とは何か
私が今、スマホを手にしてアマゾンを利用して本を買ったとします。このとき、私とアマゾンとの間では、売買関係という共通の意志が成立したことになります。意志はそれぞれの当事者の頭の中に観念として存在するかたちをとり、頭からぬけだして外部に存在することはできません。三浦つとむは、「精神とは物質のはたらきです。しかしそれは一定の構成をもつ物質においてあらわれるはたらきです。具体的にいえば脳髄のはたらきです」(『哲学入門』)と述べ、エンゲルスにならって、精神とは物質とは独立して存在するところの、人間頭脳のはたらきであると規定します。したがって意志という精神のひとつのありかたも、人間頭脳をはなれて存在するものではありません。この立場から、売買関係という共通の意志の成立過程を説明すると、次のようになります。
この対象化された意志は、個人的なものであろうと複数人のあいだのものであろうと、一人ひとりの独自の意志とは相対的に独立して存在するということに注意が必要です。「毎日2時間勉強する」とか「毎朝5kmジョギングする」など、個人的な目標のようなものであれば、固定化されていてもいつでも破棄することが可能ですが、多くの「対象化された意志」は他人とのあいだで成立し、社会的なかたちをとって存在します。
規範は、「心の中から自分自身になされる命令」(三浦つとむ『言語過程説の展開』p149)でもあります。他者のものであろうと自分のものであろうと、対象化された意志としての命令が自分の頭の中で複製され、維持されていく形態をとります。
このように、規範は、その成立過程はどうあれ、一度成立すると、個人の独自の意志とは独立して、頭の中の「外界」から「~しなさい」「~するべきでない」と命令されるかたちをとります。規範には以下のような種類に分けられます。
規範の種類
① 個別規範…個人が自己を規定するために自由意志によってつくり出した規範。
「禁酒禁煙」、「毎日ジョギングする」など。
②特殊規範…約束や契約など。二人以上の人のあいだで共通に規定するところの規範。たとえば「五時に有楽町で会いましょう」。
③普遍規範…掟や法律など。
④自然成長的な規範…われわれは実践や習慣をくりかえすことによって自然成長的な規範をつくり出している。子育てにおける「しつけ」など。
⑤明文化されない、自然成長的な規範としての「風」というものが存在する。全体としての共同利害と各個人の特殊利害との関係を処理するために自然成長的につくられる。
「意志は思想・理論をふくんでいる」というところはきわめて重要で、自然成長的な規範は、こうして次第に善悪の判断をふくんでくることになります。そこで成立するのが「道徳」です。
⑥道徳…集団の共同利害に基礎づけられて自然成長的に生れた、その集団にとっての普遍規範であり、善悪の判断を含むものである。
———こうして見てくると、「空気」が道徳の一種であることは間違いないように思われます。そして道徳は特定の集団における普遍的な規範ですので、「空気」とは、多くの場合ある種の閉鎖されたコミュニティにおいて醸成されるものといえるかもしれません。さらにその道徳には、善悪の判断が含まれていることになります。
規範の本質
規範は現実の世界の中で、具体的には家庭や学校や会社などで、あるいはテレビや新聞などのマスコミによる宣伝や、政治家による法律などのかたちで現実的に変更が可能なのであり、それらによってある種の意志の形成が促進されたり、ある種の意志の形成が抑圧されたりすることも可能である、ということなります。このことは、「集団における意志の統一」(同上)に規範がきわめて重要な役割を果たしているということでもあります。そして当然、それは同時に、時の支配層がここに目をつけて何事かを企むことも可能であり、すなわち人びとにある種の規範を植えつけてある種の行動をさせることも可能である、ということにもなります。だからこそ規範の分析は重要なのです。
「空気」という言葉は、上記のフィクション性をうまく表しているとは思いますが、ただ、それだからといってそれを現実の世界から切り離してしまわないように気をつけなければなりません。規範は、基本的には現実の世界を反映した認識が(人間頭脳において)観念的に対象化されて成立するものであり、フィクションではあるけれども「妖怪」や「超能力」といった謎の存在ではありません。ですので、「空気」の分析の際には、SNSを含むあらゆるメディア、官僚・政治家の発言、上からの命令をよく吟味するべきである、ということにもなるわけです。
コロナ騒動期の「感染対策」というのは、完全に「善悪の判断がむすびついていた」ので、「風」を超えた一種の道徳であったといえるでしょう。「マスクをする」「ソーシャルディスタンス(他人との距離)を守る」「不要不急の外出を控える」「ワクチンを打つ」などが善行として推奨されていたことは覚えている方も多いことでしょう(2021年当時、ある小学生用の新聞では、あるタレントが「ワクチンを打つことは命を助ける行為であり、ワクチンを打ってヒーロー気分を味わおう」と接種を推進していました)(【毎日小学生新聞〔2021年6月20日〕】)。コロナ騒動時の「感染対策」は、「衛生・健康という共同利害」のためであるとされていましたが、現在では、実際はそんなもろもろの「共同利害」が幻想であったということが明らかになりつつあります(マスクしかり、ソーシャルディスタンスしかり、「不要不急の外出」しかり、ワクチンしかり)。
(続く)