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電脳文字対話 29(映画『オッペンハイマー』を観て)
彼:映画「オッペンハイマー」を観てきたんだって?
私:うん。
彼:で、どうだったんだい?
私:結論からいうと(ネタバレあり、納得したうえで読んでください)、さすがアカデミー賞を総なめにしただけのことがある傑作で、日本人も観るべき映画だと思う(ただし、核についての研究過程の歴史的な流れやそれが原爆開発へとつなげられる過程などについて、あるいは過去の「赤狩り」の歴史などについては、ある程
時枝誠記と現象学 10
第3章 意味論
第1節 時枝誠記の意味論
「時枝誠記における『対象の展開』論」で試みたこと
時枝誠記は、言語の「意味」について論じる場合に、抽象的に「意味」や「意義」を論じることの方法論的なまずさを自覚していました。彼は「意味」を論じる際は必ず、言語表現の過程的構造図式に触れつつ、具体的な表現例・理解例とともに論じています。私は以前、「時枝誠記の『対象の展開』論 ⑴~⑽」(1)において、
時枝誠記と現象学 9
第2章 詞辞論
第8節 「文の概念について」
1937年と時枝誠記
「時枝誠記伝」(1)には、言語過程説の理論を構築し、「文の概念について」などを執筆していた1937年当時の時枝について、次のような記述があります。
私たちはともすると忘れがちですが、1937年当時、時枝は現在のソウルにあった京城帝国大学の教授でした。時枝誠記が当時、朝鮮という「辺境」において、いろいろな重圧のもと、いろ
時枝誠記と現象学 7
第2章 詞辞論
第6節 伝統的な語の分類法と現象学~時枝誠記のジャンプ!~
「文の解釈上より見た助詞助動詞」
時枝誠記が言語過程説の立場からする新しい詞辞論を初めて公表したのは、周知のように、「文の解釈上より見た助詞助動詞」(『文学』、1937年3月)においてでした。ここで時枝は、「助詞助動詞」に着目した観点から語の分類の基礎的な考えかたについて考察しています。いいかえればこの論文は、「助
時枝誠記と現象学 6
第2章 詞辞論
第5節 「国語の品詞分類についての疑点」
「用言」の名義について
時枝誠記は「国語の品詞分類についての疑点」(1)の冒頭で、本章第2節「実証性の追究」で少し紹介したように、形容詞の副詞的用法が存在すること、そしてそれが文法論的に矛盾する事実であることについて、「当惑」したことがあると吐露していました。この論文の時点での時枝は、「早く起きる」における「早く」などについて、それ
時枝誠記と現象学 5
第2章 詞辞論
第4節 「語の意味の体系的組織は可能であるか」
「話者」の思想に還る
時枝誠記は1933年の古語注釈関係の論文「古語解釈の方法」(1)においてすでに、古語の意味の客観的な理解のためには、個々の語の着実な追体験を試みるべきであり、そのためには用法上の類別を数多く行わなければならないという考えを述べていました(2)。それから約2年半後、1936年3月発表の論文「語の意味の体系的
時枝誠記と現象学 4
第2章 詞辞論
第3節 詞辞論の定義と「概念過程」論
「文の解釈上より見た助詞助動詞」における詞辞論
時枝誠記は、みずからが構築した詞辞論を初めて公にした論文「文の解釈上より見た助詞助動詞」(『文学』1937年3月)において、次のように述べています。
時枝は、このように、ごく初期の段階においては、「概念過程」を経た語類を「概念語」(のちの詞)と名づけ、「概念過程」を経ない語類を「観念語
時枝誠記と現象学 3
第2章 詞辞論第2節 実証性の追究
大野晋のエピソード
1945年の上半期、日本は戦況が悪化し、東京はたびたび空襲に見舞われていましたが、そんな中、国語学者の大野晋(おおの すすむ)は東大国語研究室において、時枝による源氏物語の講読の授業に参加していました。食べ物もままならない状況下で、イモの葉を湯がいて塩をかけて食べる「お十時」の儀式が終わると、さっそく授業が始まるという具合いでした。
時枝誠記と現象学 2
第2章 詞辞論
第1節 初期の直感的発想
言語本質観と「語の分類」について
時枝誠記の構築した詞辞論の形成過程について検討する前に、言語本質観と「語の分類」との関係について簡単に触れておこうと思います。時枝は自らの詞辞論を最初に発表した論文「文の解釈上より見た助詞助動詞」(1)において、言語本質観と、文法論や言語研究との関係について、次のように述べています。
《 言語はその本質として、