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【受験体験記】早稲田に行きたすぎてベランダから朝日に向かって叫んだ時の話


*この記事は、WEB天狼院書店で連載していたブログ「川代ノート」の再掲です。(2015年執筆)

4年前の3月4日、祖師ヶ谷大蔵駅。

私は恐怖と緊張で震えが止まらなかった。雨に濡れた子犬のように、ぶるぶると小刻みに戦慄する自分の手を抑えながら、そして気を緩めれば今にも涙が溢れてきそうな目頭に力を入れながら、携帯の電源を入れ、ゆっくりと受信ボックスを開く。
呼吸は乱れ、全身が心臓になったみたいだ。

緊張しすぎて、どうにかなりそうだった。

高校二年生の冬からずっと、ただ第一志望の大学に合格したいためだけに、必死になって勉強してきた。家じゅうに英単語を貼り、古文単語を貼り、世界史年表を貼った。今思うとどうしてあそこまで頑張れたのかわからないけれど、とにかく自分の夢がつまったその道に行くために、必死だったのだ。




きっかけは、高校一年生のとき、学校の課題でオープンキャンパスに行ったときのことだった。

15歳の私はとにかく、遊ぶのが大好き。
目を大きく見せる黒いアイライナーや、二枚重ねのつけまつげや、キラキラのラインストーンでごてごてに盛り付けたつけ爪や、逆毛をたてて膨らませた巻き髪をキープできるヘアスプレーが、大好き。将来のことのことなんて一切考えていなかったし、今が楽しければそれでいいと思っていた。まして大学受験なんて、もっとずっと先の話、そのときがきてから考えればいいと信じ切っていた。

「夏休み中に三校、オープンキャンパスに行ってくること」

だから、高校からそんな課題が出たときは、うわあめんどくさい、としか思っていなかった。まだ一年生なのに、今からそんなこと考えなきゃいけないの?もう少したってからでいいじゃん、と。

とにかくややこしいこと、時間と手間がかかること、楽しくないことが大嫌いな私は、その課題が億劫で仕方なかった。適当に有名どころを三校まわればいいや、さっさと終わらせようと思った。

なので友人に、早稲田のオープンキャンパス行こうよ、と言われたときは、二つ返事でOKした。きいたことのある大学だし、新宿はわりと近いし。ていうか、別にどこでもいいんだけど。

はじめて行ったときのことは、正直よく覚えていない。お祭りみたいにものすごくたくさんの人がいたこと、学生がみんな大きな声で挨拶していたこと、それから教授の説明が退屈だったこと。それくらい。

一緒に行った友人は私とは違ってかなり真面目で、高校一年のときから真剣に自分の将来を考えている子だったので、私は言われるがままに彼女についていくだけで、はやく終わらせて遊びたい、と思っていた。大学を見て回ったところで、大学って広いんだなあ、ふーん、としか思わなかった。

何も、本当に何も考えていない高校生だった。早稲田大学の生徒からもらったパンフレットは、クローゼットの奥に押し込んだ。もう二度と見ないだろうなと思ったけれど、もともと物を捨てられない性格の私は、まあ今すぐに捨てる必要はないし、と一応そのまま置いておくことにした。



それから夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎ、また新しい春が来て、私は高校二年生になった。

友人たちのなかにはすでに塾に通っている子、通信教育を始めた子、進路を明確に決めた子もいて、ぼんやりしていた私もそろそろ進路を決めなくちゃな、と焦り始めていた。私はいまだ自分の進むべき道を決めかねていて、どこに行くのが自分にとって正解なのか、そもそも将来何をするのが幸せなのか、考えつくせていなかったような気がして、漠然ともやもやとした不安を心の中でもてあましていた。

けれど進路が決まったのは、ほんの一瞬のタイミングだった。

動機は、不純というべきか、適当と言うべきか、けれど単純明快なルートだった。

たまたまテレビで、外国の風景を流す番組をやっていた。私は夕飯を食べながら、ぼうっとその番組を見続けていた。
カメラがある国にフォーカスされたとき、私の視線はテレビ画面に釘付けになった。

「とても美しく、優雅で、芸術的な街――モナコ公国」

繊細かつ豪華な装飾のついたロココ風の建物や、塵ひとつ落ちていない煉瓦の歩道、赤、黄色、青、緑などのカラフルな野菜や果物や香辛料が並ぶ、朝の市場。まるで宝石箱のようなその国に、私は一瞬にして虜になった。

これほど美しい国が、この世界には存在したのか。その事実に驚いたと同時に、嬉しかった。子供の頃に夢見続けたファンタジーの世界がそのままそっくり現実に現れたみたいだと思った。

そして猛烈に、その国に行ってみたいと思った。モナコの空気は、どんな匂いが、どんな味がするのだろうか。人々は毎日この国で何を考え、何を思って生活しているのだろう。私もいつか、この画面の向こう側にある世界へ行けるだろうか?

それからというもの、モナコのことが頭から離れなくなった。毎日モナコのことばかり考えた。図書館に行き、モナコに関連する本を読み漁った。歴史的観点からするとそれほど重要とは言えないかもしれないその小さな国に、私は魅了された。想いはどんどん強くなっていった。

モナコが好き!
モナコに住みたい!

好きなものが見つかってからは、早かった。モナコの建築物が好きだから建築学部へ行こう、とか、モナコ関連の旅行ビジネスが気になるから観光学部を目指そう、とかではなく、単純にモナコに住めるようなお金持ちになるにはどうしたらいいだろう? とスケールの大きなことを考えたのは、私の大ざっぱな性格ゆえと言うべきだろうか。

モナコに住めるような国際人になりたい、というわけで、私は「世界に羽ばたけるお金持ち」を目指すことに決め、少しでもチャンスが広がる国際系の学部を目指すことにした。英語は嫌いだったけれど、英語を話せる自分を想像するとかっこいいからたぶん頑張れるだろうと思った。それに、それまで韓国以外には国外に出たことのなかった私は、とにかくもっと広い世界に飛び出したい、という思いでいっぱいだったのだ。

さて、だいたい方向は決まったけれど、学校はどうやって決めよう、と思ったときに、一年前に何校か、オープンキャンパスに行ったことを思い出した。

あ、あの頃のパンフレット、どこかにしまってあるはずだ。

そう思い出してクローゼットの中を探すと、ずっと奥の方からたしかに、少し埃をかぶったキャンパスバッグの中に、大学のパンフレットの束が出て来たのである。

軽く埃を払って、一冊一冊、学校と学部の名前をたしかめる。
あのとき説明をきいた中に、国際系の学部のパンフレットは無かっただろうか。
ぱらぱらとめくると、ひとつの学部名が目に飛び込んできた。

「早稲田大学 国際教養学部」

表紙には、さまざまな肌の色の、おそらく全員が違う国籍を持っているであろう生徒たちが楽しそうにディスカッションをしている写真があった。

これだ!と直感的に思った。心臓が高鳴る。

どきどきしながらその学部のパンフレットをめくると、「世界にはばたける国際人を育てる」「あらゆる教養を身に着け、多面的に物事を判断できる人材を育成したいという思いから、文系から理系まで七つのカテゴリーから好きな学問が学べるカリキュラム」「すべての授業は英語で行われる」など、そのときとにかく世界に出たい、と思っていた私には十分すぎるくらいに響く言葉がたくさん載っていた。

「お母さん!」

私、どうしても、ここにいかなくちゃ。

本能とすら呼べそうな強い直感に従い、パンフレットを持ったまま、リビングのドアを開けるのさえもどかしく、母のもとへ走った。

「お母さん、私が早稲田に行きたいって言ったらどうする?」

何の脈絡もない私の発言に、母の目が大きく見開かれる。

「早稲田、って、あの早稲田?」

「うん、あの早稲田。早稲田大学の早稲田」

「紗生、それ本気で言ってるの?」

今まで川代家には一度も出てこなかった「ワセダ」という言葉が二人の口から何度も飛び出し、母は信じられない、とも言いたげな顔で私を見た。

「うん、私、すごいここに行きたくなった。早稲田しかない気がする」

「あのね、紗生、いくら最近成績上がってきたって言ったって、あの早慶戦の早稲田なんだよ。並大抵のことじゃ合格できないよ。わかってるの? 本気なの?」

母は私を疑っているようだった。当たり前のことだ。中学生まで私は勉強がちっとも好きじゃなかったし、いつも赤点ばかりとっていたからだ。高校二年になってようやくそれなりの成績をとれるようになっていたとはいえ、模試の結果も悪く、偏差値も45くらいだったし、なんといっても、慶應と並んで私大最難関と呼ばれるあの早稲田大学である。いくら勉強に興味が無かったとはいえ、私にも、勉強さえすれば誰だって受かるわけじゃないことくらいは分かっていた。

「でもね、ほら、見て。楽しそうでしょ?」

「うん、楽しそうだし、紗生に合ってそうな学校だとは思うけど……」

母はいつも私の味方でいてくれるとはいえ、今回ばかりはさすがに心配しているようだった。
けれど単純明快で思い込みの激しい私の脳みそが左右されることは無かった。「これ!」と決めたらもうこれしかないのである。

「じゃあさ、わかった。高校二年の二学期、オール5をとれたら、早稲田を目指す。私、自分の本気度を試してみるよ」

というのも私はそれまで、本気で何かを頑張ったことが一度もなかったのだ。中学のときに所属していたテニス部も持久力が無くて続かなかったし、高校で入った茶道部も、茶道具を毎回持ってくるのが面倒で、身が入らなくなった。勉強だってそうだし、幼い頃に習っていた絵の教室も、いつしか行かなくなった。かといって顔がいいわけでもスタイルがいいわけでもないし、素直じゃなくて天邪鬼だし、明るく面白いクラスの人気者というわけでもなかった。何の特徴もない平凡な人間だった。
部活に熱中するクラスメイトや、ダンスの大会のために必死で練習している従姉や、読書が好きで知識がとても豊富な親友がいつも羨ましかった。それに比べ、私はなんて取り柄のない人間なんだろう、とずっと思っていた。

そういうこともあって、私は自分を試してみたかったのである。今ここにある、「早稲田に行きたい」という気持ちは本物だと思った。
もしかしたら、そう思いたかっただけかもしれない。本当は何でもよかったのかもしれない。変わりたいと思ったちょうど都合のいいタイミングで、受験がやってきただけかもしれない。でもとにかくその瞬間、挑戦したいと強く願ったのは本当だった。



母に宣言して以来、私は勉強に熱中した。それまでは知らなかったけれど、勉強というのは一度リズムに乗ってしまえば面白いもので、どれくらいの周期で授業の予習、復習をこなし、テスト勉強をすればいい成績がとれるかということがだんだんわかってくると、もはやゲームのように思えてくるのである。徐々に、自分に合った勉強方法が掴めてきて、どんなことをすればテストでいい点がとれるのかが知りたくて、私はさまざまな方法を試した。単語帳を読みあさり、音読をし、問題集をといた。

勉強方法だけでなく、いつ、どんな状況で勉強をするとはかどるのか、実験もした。学校から帰ってきて、夜遅くまで勉強するのか、それとも朝早く起きて勉強するのか。家でするのか、図書館でするのか、放課後に学校でするのか。
結局私は朝型なのだということがわかり、朝5時に起きて一時間半勉強し、そのあと学校に行き、放課後は家に直帰して勉強、遅くとも23時には寝て明日に備える、というサイクルが自分には一番合っているのだとわかった。

勉強の合間に機会を見つけては早稲田のキャンパスを訪れ、ああやっぱりここがいいんだ、と再確認し、自分のモチベーションを保っていた。

早稲田を目指すと決め、オール5をとるためにわき目もふらず必死に勉強し始めた私に、周囲の私を見る目も徐々に変わっていった。

私と一緒に赤点をとり、底辺争いをしていた友人は、「そんなに勉強してどうしちゃったの? お願いだから置いていかないで」と半分冗談、半分鬼気迫る様子で私に言ってきた。以前は授業中寝てばかりの私を飽きれたように見ていた先生も、「川代、最近頑張ってるね」と声をかけてくれ、質問にも積極的に答えてくれるようになった。

そして肝心の母も、もちろん。

私は母が、紗生が最近すごく勉強頑張ってるの、この前なんて世界史で100点満点をとったんだよ、と嬉しそうに祖父母に電話しているのをきいた。母は、私の成績が優秀だということではなく、私が何かに一生懸命にとりくんでいるということが嬉しいのだろうと思った。

そんな母の姿を見て、絶対に早稲田に合格しなくちゃ、とあらためて強く思った。

***

高校二年の学期末に帰ってきた成績表は、体育など技術系の科目を除いて、オール5だった。

主要科目すべてに綺麗に並んだ5を、私は宝物のように眺め、そっと先生から受け取った。

大丈夫、きっと、私なら出来る。
やらなきゃいけないんだ。

勉強に一生懸命とりくむうちに、私はいつしか、母を喜ばせるためにも、絶対に早稲田に合格しなければならない、と思うようになったのである。

母は私が有名な大学に合格したからといって喜ぶような、世間体を気にする人ではまったくないことは分かっていた。母は私に、やりたいことを見つけて楽しんでほしいと思っているだけで、子供に自分の価値を見出すようなことをする人ではないのだ。

けれど私は、やっぱり母を喜ばせたいと思った。私が、私自身の力で夢を叶える姿を見せることが、母にとっては大きな幸せなのだろうと思った。

けれど現実は厳しく、成績は上がって来たとはいえ、模試での偏差値は相変わらず45だった。早稲田大学国際教養学部の偏差値は、66。当然、合格判定は5%以下だった。
でも母に負担はかけられない。浪人は出来ない。絶対に現役で合格したいので、一年で20以上も偏差値を上げるとなると、相当努力しなければならないはずだった。

「国際教養学部の入試は、英語の割合が大きく、かなり難しく設定してあるので、合格するにはネイティブ並みの英語力が求められます。逆に言えば、相当英語が出来なければ、この学部の授業にはとてもついていけないということです」

ああ、今頃になって、昨年の早稲田のオープンキャンパスのとき、教授が淡々と言っていた言葉がよみがえってくる。
はたして自分に、やれるだろうか。たいした努力もしてこなかったこの私が、何かを成し遂げることが、できるのだろうか?

でも、奇跡を起こしてみたいと思った。

他人からすれば、大したことじゃないかもしれない。もっと頭の良い、幼い頃からずっと勉強してきている人からすれば、大学受験なんて、と思うかもしれない。どの大学に行くかなんて関係ない、受験勉強よりもずっと大事なことがある、と言う人もいるかもしれない。

それでも私は、受験という大きな壁を、本気で登ってみたいと思った。
心からほしいと思ったものを手に入れる感動を味わってみたかった。

今しかないんだ、と、心の奥の方で、本能がうったえている気がしたのだ。



第一志望校を早稲田と決めてからが本当のスタートだったのだと、ようやく気が付いた。学校の成績を上げる云々で苦しんでいるなんて、スタートラインにすら立てていなかったのだ。

一応進学校だったので、学校の勉強が受験勉強につながるとはいえ、とてもそれだけでは十分とは言えなかった。

高校二年の頃は、学校の授業でいい成績をとるだけでひいひい言っていたというのに、今度はそれに加えて参考書や問題集をこなし、それに単語帳を覚えなければならなかった。
友人の多くは塾や予備校に通っていたが、私は短期集中型の夏期講習以外には一切通わなかった。マイペースな性格ゆえ、他人と肩を並べて勉強するというのが性に合わないというのもあったし、それに正直なところ、やたらと厳しい声をかけてくる塾講師に不安感を煽られたくなかったのだ。味方は家族だけで十分だと思った。

とにかく起きている間はずっと勉強した。朝起きて最初に思うのは「勉強しなきゃ」ということだった。トイレに入るとまず便座に座り、ドアに貼ってあるいつも間違える重要英単語の張り紙を見て、ぶつぶつと何回も音読した。それを全部覚えたと思うまで、絶対にトイレから出ないというルールを設けた。
日が経つ毎に、貼り紙は増えていった。トイレの個室のドアと左右の壁に貼るスペースが無くなると、今度は自分の部屋に貼り、次はリビングの、食事をしている間に眺められる壁に貼った。もぐもぐと野菜炒めを咀嚼しながら壁一面の単語を眺める。心の中で音読し、意味を覚え、そして飲み込む。最終的には家中どこにも、貼り紙がない場所がないくらいに、白い紙だらけになった。まるで何かに取りつかれたように、勉強をした。

家族はそんな私の異常ともとれる行動に、何も言わなかった。行儀悪く食事をとりながら勉強していても小言も言わず、静かにテレビを消した。母はときどき、少し休んだら? と言うくらいだった。

けれど受験の総本山の夏休みが明けても、合格判定は5%以下のままだった。

ここまでやっているのにどうして、と思った。夏休みは一日13時間は勉強した。少なく見積もっても全部で300時間は勉強したはずだ。
なのに。



模試の成績表にある無慈悲な「合格可能性:E判定」の文字に、私は焦っていた。

夜にはシャツの繊維をすり抜けて、つんとした冷たい風が肌に触れてくるようになった。新緑に萌える木々はあっという間に黄に染まり、赤になり、そして茶になった。ひらり、ひらりと一枚ずつ葉が落ちていくのを、私は横目に見ていることしかできない。
どうやっても、時間は止まらないのだということをあれほど強く実感したことはなかった。

秋が過ぎ、学年全体の雰囲気もいよいよ、張りつめたものになってきていた。

いつも参考書を抱えて廊下を歩く人や、休み時間には友達同士で問題を出しあう光景や、ホームルーム後には一番に教室を飛び出し、図書館に足早に向かう姿にも、いつしか見慣れた。あと3か月しかないのだ。

仲の良い友人は、すでにA判定(合格可能性80%以上)をとっていた。このままいけば大丈夫だろう、と余裕の表情でいる友人と話すのすら、苦痛になっていた。
どうしてそんなに余裕でいられるの? 私と同じくらい苦しんで、焦ればいいのに。
大好きな友人のことをそんな目で見てしまうのは、とても悲しかった。暗く醜い嫉妬心を隠しながらも友人によかったねといい顔をする自分に嫌気がさしていた。

私の家もまた同様に、ぴりぴりとした空気が漂っていた。
私は食事、トイレ、風呂以外にはほぼ部屋に引きこもって机にかじりついて勉強するようになり、家族ともほとんど会話を交わさなくなった。

愛犬のトイプードルは、ふわふわだった尻尾の毛が文字通り禿げてしまい、見るも無残な尻尾になった。私から発せられるイライラした空気、そして腫れ物に触るような家族の気疲れが、彼女にもストレスを感じさせていたのだ。

センター試験の過去問は何度もといた。赤本も、問題集も。単語帳だって20周はした。毎日放課後には先生に質問しにいった。いつだって勉強している。絶対に合格してやるんだと信じて勉強し続けた。

ここで頑張らないで、どうする!
絶対にあきらめない!

自分を叱咤激励し、鞭をうち、これでもか、これでもかと、勉強し続けた。
いい加減、あまりに顔色が悪いので、母に「勉強は少し休んだらどうか」と言われたが、無視して勉強した。

自分が何をしているのか、もはやわからない。

中指のたこが、ひどく痛む。

***

無残にも時は過ぎる。

分厚いピーコートを着なければとてもしのげないくらいの寒さになり、単語帳をめくる手もかじかむようになった。
いよいよ授業も終わり、冬休みになる。一部の推薦で合格を手にした生徒は余裕の面持ちで、しかしこれから入試を控えた生徒を刺激しないように穏やかに日々を過ごす。けれど受験生の顔はやつれ、生気が無く、張りつめている。

当の私は、のんびりと過ごしている彼らが、羨ましくて仕方なかった。
さっさと終わらせたいと思った。
別に見下されていたわけでもないのに、推薦合格者に勝手に張り合い、見返してやると内心思っていた。そうでも思わなければ精神を保っていられなかったのだ。

親に心配されてでも無理な壁に挑もうと決めたのは自分自身だ。
絶対に合格して、この道を選んでよかったと、あとから振り返って思うんだ。

大丈夫、絶対に受かる。
大丈夫。

自分に何度、そう言い聞かせただろうか。



しかし現実は、残酷である。

12月末に受けた、本番前の最後の模試の結果は、偏差値56だった。
はじめの45からは随分上がったけれど、目標の66には到底及ばない。

当然のことながら、E判定だった。

もう限界だ、と思った。
もう、頑張れない。これ以上、何をがんばれと言うのか。
こんなにやってるのに、どうして、最後の最後まで、E判定なの。
絶対に受かるわけない!

もう駄目だ。

張りつめていた糸が、ぷつんと切れた瞬間だった。

びり、びり、と感情にまかせて、私は家中の貼り紙を引きはがした。

「reconcile 和解させる」

「the prime 全盛」

「evoke 呼び起こす」

国際系の学部を受けるというのに、英語は一番苦手だった。

何度も何度も眺めた英単語たちが、ひとつひとつ、自分の手で破かれていく。

ひとつ残らず。トイレも、リビングも、部屋も、洗面所も、廊下も、クローゼットも。貼り付けていたテープがうまくはがれず、壁紙に白い破り跡が残る。

私の目に入るありとあらゆるところに貼ってあった貼り紙をひとつ残らずすべて引きはがし、思いきり破った。母が驚いた顔でこちらを見ていた。
私は無心で、ひたすらに紙をちぎり、破り、丸め、そして部屋中に投げ捨てた。

気が付くと、ところどころ黒い線が混じった白い紙の、細かい切れ端が床に散らばっていた。

床のフローリングが、歪んだまだら模様に見える。

私はぐしゃぐしゃの紙切れを握りしめて、泣いていた。

もう頑張れない。
どうせ私なんて。
どうせ、何も成し遂げられない、何の価値もない人間だ。

「もういやだあ!」

叫んだ。思いきり、泣き叫んだ。

「もう無理! できない! なんでこんなに頑張ってるのにE判定なの! もう時間が無い! 早稲田なんて絶対受からない! もういや……もういやだあ、勉強したくない! もうやめたいよお!」

わあああん、と文字通りに、子供みたいに泣き叫んだ。いや、できない、やめたい。言葉にすると実現してしまうんじゃないかと我慢していたマイナスの単語を、すべてぶちまけた。

ずっと黙っていた母が思いきり、私の肩を掴む。

「頑張ってるよ! 紗生は頑張ってるよ!」

母が叫ぶ。

「自分で頑張るって決めたんじゃないの! 辛いのはわかるけど、自分でそれだけ高い壁を目指すって決めたんでしょ? なら、精一杯頑張れば、それでいいじゃないの!」

私と負けないくらいの大声で、叫ぶ。

「でも……こんなにやってるのに全然だめだなんて、私は、私は、やっぱりだめなんだ! だめな人間なんだ!」

「だめじゃない! どんな結果でも、紗生の価値は変わらない! 受かっても落ちても、紗生の価値はまったく変わらない! たしかに一生懸命頑張って受かったらそりゃあすごいけど、落ちたからって紗生が駄目な人間だなんて、そんなこと全然ないんだよ。どんな結果になっても、お母さんが紗生を大好きなことは変わらないよ! 大丈夫だから!」

母が強く私を抱きしめ、私は母の腕の中で泣き崩れた。

「おかあさん」

「大丈夫、紗生はよく頑張ってるよ、素晴らしいことだよ。自分はだめだなんて、価値がないなんて思わないで。どんな紗生でも、大好きだよ。精一杯、最後まで頑張って、あとはありのままの結果を受け止めればいいじゃない? 一生懸命やった結果が、紗生の行くべき道だと、お母さんはそう思うよ」

母は強し、と最初に言ったのは、どこの誰だっただろうか。

ああ、この家に生まれてきてよかったと、母の掌のぬくもりを背中に感じながら、私は心のなかで呟いた。

***

2月13日は、快晴だった。

受験票も入れた。「WASEDA」の刻印がされた鉛筆も、「湯島天神」の刻印がされた鉛筆も入れた。全部ちゃんと削ってキャップがしてある。消しゴムも二個入れた。参考書も入れた。ぼろぼろになった英語の単語帳、マーカーだらけで真っ赤の古文単語帳、ぱんぱんになって閉まらなくなった世界史の用語集も入れた。ティッシュとハンカチも入れた。お気に入りの赤い巾着の中には、休憩時間に触って安心できるリラックス効果の高い愛犬のふわふわの毛玉と、高校の体育祭で優勝したときに着けていた鉢巻を入れた。ソーダライトのパワーストーンもつけたし、分厚い赤いニットの勝負服の下には、でかでかと「WASEDA」と書かれたTシャツを着ていた。

準備は万端だ。あとは家を出るだけ。

「紗生、ほら、朝日にお祈りしな!」

その前に、最後の最後の、神頼み。

母がベランダのガラス戸を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んできた。

さんさんと朝日が差し込む日の光の中に飛び込み、手を合わせる。

目をつぶると、長かった受験勉強の日々が思い出された。

毎日、毎日、勉強のことしか考えていなかった。
うまく行っている友人の不幸を願ってしまった自分を嫌悪した。
何度も母に、父に、愛犬に八つ当たりをした。
先生にも、第一志望校は厳しいと言われた。
未だ、合格可能性は5%以下だ。どう考えても、落ちる可能性の方がずっと高い。それでも、家族に支えられ、自分を信じて、この日のためにここまでやってきた。

あとは、全力でやるだけだ。

「きょうは、わせだだいがく、こくさいきょうようがくぶの、じゅけんのひです!」

ベランダから、朝日を正面に、思いっきり叫ぶ。

「だいいちしぼうこうです! ずっと、ずっとこのひのために、がんばって、きました!」

叫ぶ間に、涙が出てきて、声が震える。

「せいいっぱい、がんばるので、おねがいします、ごうかくさせてください!」

涙に鼻水に、必死の形相で、叫ぶ。

「紗生、ちょっと、大声出しすぎ!」

母ははっとして周囲を見渡す。幸いにも、いくら大声とはいえ、さすがにお隣さんにまでは聞こえなかったようである。母は私のぐしゃぐしゃの顔を見るなり吹き出す。おかしくてたまらないという表情をしていた。笑いながら私の涙を手でぬぐう。

「よくやったよ。気合い、入ったね。大丈夫! なんとかなる! 行ってきな!」

どん、と母に強く背中を押され、私は決戦の場へと向かった。



あなたは、補欠合格者となりました、なお、結果は3月4日に発表いたしますので――。

録音された事務的な女性の音が、無遠慮に何度も、繰り返される。
私は受話器を耳に当てたまま、放心していた。

思い描いていた大学の合格発表というのは、大きな掲示板の前で、受験票を握りしめて、心臓が飛び出そうなほどどきどきしながら数字をたどっていくあれだったけれど、現実は意外に機械的なものだった。時代は進化したんだなあ、なんて場違いに能天気な台詞が心の中に浮かんできた。

「紗生、すごいじゃん! 補欠!」

母が慰めるように言う。

「うん、そうだね」

「補欠は、どうなの? 繰り上がる可能性はある?」

私は、知っていた。赤本に書いてあるデータはほとんど頭に入っている。

昨年、補欠合格から繰り上がった人は、3分の1以下だ。
でも、今年はどうなるかわからない。全員合格の可能性もあるし、全員不合格の可能性だってある。

受かるかもしれない。
落ちるかもしれない。

「わかんない」

なんだか実感が無かった。

「合格してるといいなあ」

どこか他人事のように、私は母に言った。

***

受験の終わりというのは、予想外にも、ひどくあっさりしたものだった。
その日は、国際教養学部の合格発表の翌日で、早稲田大学の社会科学部の受験日だったと記憶している。

机に置いた腕時計の針が終わりを告げるまで、私は強くすり減った鉛筆を握りしめていた。

アルバイトであろう、早稲田の学生が鳴らす古めかしいベルの音が、私の長かった受験生活が終わったのだと知らせてくれた。
いつか終わることはわかっていたはずなのに、もうこれで問題を解くことはないのかと思うと、不思議な気分だった。もう必要はないのに、これからの帰りの電車でも、単語帳をめくってしまいそうな気がする。

ゆっくりと鞄に荷物をしまい、上着を着て、外に出ると、大量の受験生たちが正門に向かって歩いていた。

なあ、あの問題どれにした?
俺は4にしたよ。
えっ、まじで?
お前は?

今までなら気になっていたはずの会話も、遠くに聞こえる。1枚膜が貼ってあるみたいに、ぼんやりとしていた。

頭が麻痺してしまったように真っ白で、何も考えらず、人の流れに押されるまま、前に進む。
足元を見ると、駅前で配っていたお守りのカイロのごみや、ポケットティッシュや、マスクがたくさん落ちていた。

ずっと下を向いているとなんだか気分が悪くなって、ふと上を見上げると、背の高い、大隈重信の銅像と、大隈講堂の大きな時計塔が目に入った。

瞬間、私は、泣いていた。

とめどなくあふれる涙が、とまらなかった。

ああ、私、頑張ってよかった。
結果はどうかわからないけど、本当に、受験をしてよかったと、心から思う。

何をしてもがんばれないと思っていた。
川代さんって冷めてるよね、とよく言われた。
私は一生、熱を持って何かに取り組むことができない人間なのだろうかと思うと、怖かった。

きっかけは、些細なことだった。
あのとき、友達に誘われて早稲田のオープンキャンパスに行っていなければ。
あのとき、モナコのテレビを見ていなければ。
あのとき、オール5をとっていなければ。

何か一つの要素が欠けていても、成しえなかったことだった。

ほしいもののために、ここまで必死になれた自分が、誇らしかった。
よかった。がむしゃらになれる自分に出会えて、よかった。本当によかった。

ありがとう。
ここまで頑張らせてくれて、ありがとう。

早稲田に伝えたかったのか。

神に伝えたかったのか。

母に伝えたかったのか。

よくわからない。とにかく感謝をしたくなった。

一瞬の間そっと目を閉じ、ありがとう、と心のなかで呟いて、私の長い受験生活は、幕を閉じた。



4年前の、3月4日。
最後の合格発表の日は、学校だった。

受験が終わって友人たちとわいわい、結果を報告し合う。卒業式のリハーサルをし、ホームルームを受け、午前中に解散。

なかにはまだ受験が終わっていない国立志望の子や、納得できる結果が出なくてどんよりした顔の子もいたけれど、ほとんどはすがすがしい顔をしていた。それを見ると、受験は終わったのだなとあらためて実感した。

終わってみるとあっけないもので、まるで夢を見ていたんじゃないかというくらいだった。本当に私は、1年間も勉強し続けていたんだろうか?

紗生はもう決まったの?
ううん、まだわかんないんだ。

友人との帰り道、そんな会話を平然としていながらも、内心、私は時計が気になって仕方が無かった。

もう、12時をまわっていた。
おそらく、すでに合否は出ているはずだった。

母に先に合否を確認してもらい、わかり次第メールしてもらう算段になっていた。

「ねえ、祖師谷でご飯食べて行こうよ」
「いいねー」

本当は気になって気になって仕方ないのに、心とは裏腹に、指は携帯の電源をつけようとしない。
見たい。
見たくない。

友人たちとのんびりパスタを食べる。今すぐにでも携帯を開けば合否がわかるのに、こっち側の自分は、少しでも友人たちとの会話を引き延ばそうとしている。

「あ、私、今日歯医者なんだ」
「じゃあそろそろいこうか」

一人がそう言って席を立つ。
お願い、行かないで。
一人にしないで。
一人になったら、見ずにはいられない。絶対に見てしまう。

「じゃあ、また明日ね」
「ばいばーい」

みんな行ってしまう。電車に乗って行ってしまう。

私の前身は早鐘を打ち、鞄のポケットにゆっくりと手を入れる。

携帯を探り当てる手が、震える。

いや、手だけじゃない。全身が、ぶるぶると、戦慄していた。

恐怖と、緊張と。

そしてほんの1%くらいの、期待。

この2週間、合否のことは何も考えないようにしていた。

早稲田は国際教養学部を含め、5学部受けた。

他の学部はすべて、不合格だった。

だからこれで、本当に、最後の、早稲田へのチャンス。

ここに落ちたら、早めに決まっていた他の学校に行く。

親指が、震える。頭が真っ白だ。
二つ折りの携帯電話を開き、電源ボタンを長押しする。

しゃらりん、という音とともに、電源が付き、メニュー画面が出てくる。

「新着メール二件 母」

ああ、間違いない。合否は出ている。

これで決まる。本当に、これで、決まるんだ。

私は祖師ヶ谷大蔵の駅の隅の壁に寄りかかり、両手で携帯を握りしめた。

ゆっくりと、母のメールを開く。

「おかあさん、涙がとまらなかったよ。」

一件目のメールには、それだけ。

いよいよ、心臓が高鳴る。
涙は、嬉し涙か、それとも、悔し涙か。

もう、何もきこえない。

二件目のメールを、おそるおそる、開く。

すべての時間がとまってしまったような感覚がした。

「おめでとう!!!
本当にすごいね。感動だよ!
自分で、きいてみて」

メッセージのあとに、電話番号と私の受験番号が書かれてあった。

信じられなかった。
涙が、とまらない。
本当に、本当なの。嘘じゃないの?

携帯の画面がぐにゃぐにゃに歪んで、よく見えない。

「はい、早稲田大学入試合否案内センターです」

何度も何度も押し間違いながら、学部番号と受験番号を入力する。

学部と受験番号の確認が行われ、

「正しければ、暗証番号を入力してください」

と相変わらず、事務的な声がきこえた。

暗証番号は、誕生日に指定してあった。震える手で、1111と一文字ずつ入力をする。

涙も鼻水も流れ続けるのもかまわず、携帯を耳に当てる。

「おめでとうございます。 補欠合格者制度により、合格となりました」

彼女の声はどこか、親しみをこめて言っているように聞こえた。

2011年3月4日、祖師ヶ谷大蔵の駅で泣き崩れた私は、何度も何度も、繰り返しその音声を聞いていた。

「もしもし、もしもし、おかあさん?」

頑張ったことだけで自信がついた。
受験したこと自体が、素晴らしい経験だと思った。
受かっても落ちても、悔いはないとたしかに思った。

「うん、受かったよ、受かったんだ。おかあさん、本当にありがとう。ありがとう!」

ああ、けれど、合格というのは、やはり。
これほどにも、嬉しいことなのか。



「紗生、よくそこまでやったね。すごいわ。さすが熱い女だね!」

「そうかなあ、みんなこれくらいだと思ってたけど」

「いやあ、普通やらないと思うよ。お守りくらいならまだしもさ、朝日に向かって叫ぶって、どんだけ熱いの?」

冬はやはり冷えるとはいえ、こんな天気のいい平日の午後に、小洒落たカフェで友人とまったりおしゃべりできるなんて、大学生の特権だ。しかし、こうしていられる時間も残り少ない。

「だって必死だったんだもん。私はずっとE判定だったから合格できないって思ってたし、それくらいしないと落ち着かなかったんだよ。実際補欠合格だったしね」

4年前の、合否を待つあの気が気じゃなかった2週間を、私は笑いながら思い出していた。

「合格した人たち、頼むから蹴ってくれ、って思ったかな」

「あのときは本当に苦しかったけど、今となってはそれもいい思い出だね。あと二か月で卒業とは、早いねえ」

しみじみと言う。
あれからもう4年が過ぎようとしている。
色んなことがあった。

サークルに入った。
飲み会で大騒ぎした。
バイトをした。
勉強をした。
留学をした。
旅行した。
恋愛をした。

はじめてのことばかりだった。
色んなことがあった。色んな人に出会った。何度も自信を無くした。優秀な友人たちと話す度、授業についていけなくて泣きそうになる度、自分はやっぱりこの学校にはふさわしくないんじゃないかと思った。補欠は所詮補欠で落ちこぼれなのかと思った。悔しかった。

けれどその分、もう嫌というほど、自分と向き合うことができた。たくさんの発見があった。こうして大好きな文章を書けているのも、天狼院と出会えたのも、早稲田に入れたからだった。すべてが新鮮で、楽しかった。

そして今目の前にいる友人のように、きらきらと眩しい同級生たちを見るにつけ、本当に合格させてくれてありがとうございます、と思わずにはいられない。

「授業のときとか留学のときとか、いろいろ文句言ってたけどさ、こうして卒業間近になるとやっぱり早稲田に入ってよかったって思うよね」

「当たり前だよ! あんだけ苦労して入ったんだもん」

「え、それ紗生が受験で苦労したからって、思い出補正かかってるんじゃないの?」

「違うって! 受験も含め、いろいろ思い出すと本当に感慨深いよねってこと」

もう高田馬場に来ることもなくなるのかと感傷に浸りつつふと窓から空を見上げると、あの受験日のように、雲ひとつなく快晴だ。

ああ、早稲田の紺碧の空が、今日もまぶしい。






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