【日記】若いがゆえの青さや繊細さを、いつまでも大事にとっておきたくて
わざと、傷つこうとしていた。自ら傷つきにいこうとしていた。傷つく自分にほっとしたし、自分がまだ心のどこかに繊細さを持っていることをたしかめたくて、あえて、誰かに言われてショックを受けた言葉を何度も、何度も何度も、頭の中で再生したりしていた。
若いがゆえの青さや繊細さを、いつまでも大事にとっておきたかった。歳を重ねるごとに傷つきやすさが薄くなってゆく自分に、焦りやさびしさを感じたりもした。いや、図太くなったとか、メンタルが強くなったとか、そういうわけではないのだろうと思う。たとえば最近だって、舐められてるな、と悔しくなることがあった。わかりやすく態度を変える人がいたのだ。上にはごまをすり、自分が下だとみなした相手のことは適当にあしらう。そういう人がほんとうにいるのだ。
まあ、数年前ならたぶん、いったんそういう出来事があると、ふんがー! と怒り狂い、それでも「どうして舐められたのか」の答えを見つけないと気が済まず、自分を見下してきた相手のSNSを調べ尽くすみたいなことをやりまくっていたわけだが、大人になると、まあそこまで「傷つききる」みたいなことをやらない。そもそも、そこまで考えるほどの体力も時間もない。
それに、大人になると、そういうときの対処法がパターン化されている。他人を嫌いになるのもうまくなるというか、合理的に嫌いになれる。「あー、そういう人なのね。じゃあ嫌いになりますね」と、嫌いになるシステムが整っている。「ほんとうはいい人かも」なんて期待していると、あとでこじれて余計にめんどくさいことになる、ということを学んでしまったのだ。こちらが誠実に向き合おうとすればするほど、なぜか舐めてくる人というのは存在する。
そういうわけで、傷つきそうになると回避したり、傷ついても手際よく応急処置したりするのがルーティン化するので、反対に、ちゃんとまっとうに傷ついて大騒ぎしていた頃の自分が懐かしくなったりして、わざと傷つきにいこうとしちゃうことってあるよなあ、と思ったりした。
でもさ、「ああ、こういうときはこうしとけばいいから」的に、自分の中のマニュアルに組み込まれていくだけで、べつに、悲しくなったり、怒ったりする気持ちそのものがなくなるわけじゃないんだよな。
いくら絆創膏の強度が増しても、傷を縫い合わせる縫合技術が高くなっても、ナイフでぶすりと刺されれば痛いし、血も出る。「傷つかなくなった」わけじゃない。これまでの経験で、「傷を治すのが早く、うまくなった」だけなのだ。
繊細じゃなくなっていく。鈍くなっていく。いろんなことを気にしなくなっていく。それはイコール、青春時代の終わりを象徴する出来事みたいに思える。ときには、「つまらない人間になったのではないか」と不安になることもある。けれど、でも私は、たくさんの傷跡を背負えること、ひとりの人間としての歴史を、この体に、この心に持つことができる面白さは、かけがえのないものだと思う。青くい続けること以上に。っていうか、そう思いたいし、そう思える生きかたをしたいよね。
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