七月二十六日 知の果てへの旅
人の文章に感想を書かせてもらうことは、とても勉強になるし、なによりそうした方が熟考と熟読が出来る。まぁ、そんなの当たり前なんだけど。私は、読んだ気になって満足していることが大半なので、読書について考え直すよい機会だ。
そして、その感想に対して相手から返信が来る。これがどれほど贅沢なことなのか、改めて痛感した。
以前、誰かがパートナーと本の好みが全く違うけど、お互いに感想を言い合えるのは本当に贅沢、みたいなことを言っていたな。素敵な関係だ。
ある人の「自分と他者についての考察」を読んで、決して自分が出会うことのない、未来の人のことを考えるとは一体どういう心持ちなのだろう、となった。
自分の時間軸では接点がどこにも無い(つまり過去ではあり得ない)世界について考えることも。
そもそも、時間軸ってなんだよ、私。そこで、時間について考え、手に取ったのが『知の果てへの旅』(新潮クレスト•ブックス)。
若い頃は、何でもわかると思っていた。時間があれば大丈夫。だが年を重ねるにつれて、その時間が尽きようとしていることを実感しはじめた。
オックスフォード大学数学研究所教授であるマーカス•デュ•ソートイ氏にそんなことを言われると、知とは宇宙全体を食らうほどの化け物に思えてくる。人間には扱うことは不可能なのか。
聡明な人ですら、時間に行く手を阻まれてしまうのか。
時間について、本書では聖アウグスティヌスの言葉を引用している。
「時間とは何か。誰にも問われなければ、それが何なのかわかっている。問われて説明しようとすると、それが何なのかわからなくなる」
時間のはじまりを考えることは、つまり時間がなかった状態を考えなければいけない。空間がある状態以前、つまり空間が無い状態からある状態を想像する方がまだなんとかなりそうだ。なぜなら、空間がある状態を知っているから。
では、時間は。一億年経っても誤差が一秒ほどと言われている原子時計なんてものもあるが、原子時計は時間ではない。時間を測定しているものだ。肝心の時間そのものでは無い。では、時間そのものはどこに「ある」のだ。あるのだとしたら、ない状態も想像しなければいけないのだけど、時間がないと断言出来る状態とは一体どのようなものを言うのか。
うーん、今度は時間についての本を読まねば。