mRNAワクチンのヒトゲノムへの組み込みについて
リクエストがあった件についてお答えします。
関連記事を削除してしまったので、簡単に背景から説明します。
反ワクチンの主張の一つに、「mRNAワクチンに含まれるSARS-CoV-2 スパイクタンパク質のmRNAは逆転写され、ヒトゲノムに組み込まれる(だから危険だ!)」というものがあります。
最初に、この主張の根拠となったのが以下の論文です。
特殊な培養細胞にSARS-CoV-2を感染させた結果、SARS-CoV-2 RNAの一部(スパイクタンパク質をコードする部分ではない)が、ゲノムDNAに組み込まれていることを『ロングリードシーケンシング』と呼ばれるゲノム配列を解読する手法により明らかにしました。
この論文を根拠にするならば、本当に心配すべきは『SARS-CoV-2感染』であると思いますが、反ワクチンは反コロナ(SARS-CoV-2は存在しないと主張する人たち)と密接に関わっていますから、この言説は反ワクチンの間で広く浸透しました。
しかしながら、その後すぐに、この研究は不適切な実験デザインに基づいていることが指摘されました。
これにより、昨年末にはこの言説は鎮静化したと思っていました。
一昨日(25日)、実際のファイザー社製のmRNAワクチンを用いて「COVID-19 mRNAワクチンに含まれるmRNAが逆転写されてヒトゲノムに組み込まれる」可能性を示唆する論文が発表されたので、この論文の解説記事を書くことにしました。
論文を読んだ私の個人的な感想を簡単に紹介したいと思います。
論文のタイトルにも含まれていますが、『Human Liver Cell Line(ヒト肝細胞株)』、より正確に言えば、『Human Hepatoma Cell Line(ヒト肝癌細胞株)』であるHuH-7細胞を使った研究になります。
論文では、
・mRNAワクチン(BNT162b2)添加から6時間後に、HuH-7細胞でLINE-1の発現が増加したこと、
・BNT162b2を添加した細胞内から、BNT162b2の配列を持つDNA断片が検出されたこと
が、4つの図で端的に示されています。
注意して欲しいのは、この論文では「mRNAワクチンがヒトゲノムに組み込まれた」ことは示されていません。
この論文を根拠にそう主張するのは『ミスリード』です。注意してください。
まず、『LINE-1(Long interspersed nuclear element-1)』について簡単に解説します。
LINE-1は、レトロトランスポゾンと呼ばれる配列の一種で、RNAへの転写とDNAへの逆転写の過程を経てコピー&ペースト方式で転移します。
(画像:https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2017/5552/)
もし、外部から侵入したウイルスなどに由来するRNAがLINE-1 mRNA(図中ピンク色)に似た特徴を持っていれば、レトロトランスポゾンの働きによってゲノムDNAに組み込まれる可能性があります。
また、何らかの刺激によってLINE-1の発現が増加すれば、外部から導入したRNAのゲノムDNAへの組み込みがより起こりやすくなる可能性があります。
論文の結果について、気になったことを3つ紹介します。
まず、図3について。
これは、ヒト肝癌細胞HuH-7細胞にBNT162b2(0.5, 1, 2 µg/mL)を添加し、6, 24, 48時間後のLINE-1 mRNAの発現を解析した結果になります。
(画像:https://www.mdpi.com/cimb/cimb-44-00073/article_deploy/html/images/cimb-44-00073-g003.png)
私は、BNT162b2を添加していない細胞(コントロール, Ctrl)において、LINE-1 mRNAの発現が増加していることが気になりました。
何も添加していないHuH-7細胞でLINE-1 mRNAの発現が顕著に増加したということは、外部からの刺激がなくともLINE-1 mRNAの発現が容易に変動する細胞であり、この細胞(癌由来細胞株)をレトロトランスポゾンの研究に用いることに問題がある可能性があります。(=「不適切な実験デザインに基づいている」可能性があります。)
補足)複数の癌でレトロトランスポゾンの活性化が報告されています。
ただ、これについては、「2 µg/mL(V3)のBNT162b2添加から6時間後にLINE-1 mRNAの発現が増加している」ということがこの論文において重要ですから、ひとまず脇に置いておきます。
そして、BNT162b2添加から6時間後のLINE-1タンパク質(ORF1)の発現について解析した結果が、図4です。
図4aの赤色の蛍光シグナルはLINE-1タンパク質(ORF1)の存在を示し、赤色の蛍光が強いほど多く存在することを示しています。図4b, c, dは、その赤色の蛍光の強さをグラフ化したものです。
(画像:https://www.mdpi.com/cimb/cimb-44-00073/article_deploy/html/images/cimb-44-00073-g004.png)
補足)LINE-1 mRNAからは『ORF1』と『ORF2』という2種類のタンパク質が作られます。特に逆転写酵素活性を持つORF2の方が重要ですが、これらのタンパク質の発現が転移に重要な役割を果たします。
私は、図4aのHoechst染色(Hoechst 34580というDNAに結合して青色の蛍光を発する色素を使ったDNAの染色法)により染まった細胞核の青色の違いが気になりました。
Photoshopを使って、BNT162b2を添加した細胞としていない細胞の核の青色の蛍光を比較した結果、色調が明らかに違うことが分かりました。
核内のDNA量は一定であることから、青色の色調の違いは観察条件(励起光の強度やピントなど)の違いを示していると考えられます。
励起光の強度を下げることで、LINE-1 タンパク質(ORF1)の存在量を少なく見せることは可能です。ごく少量しか存在しない場合は、見えなくなる可能性もあります。(この論文で意図的にそれが行われたとは言いません。)
蛍光シグナルが暗ければ視認性は下がります。
得られた画像から「核や細胞質の境界をフリーハンドで選択した」とのことですが、それが不明確だと、解析結果に影響を与える可能性があります。
あるいは、図4aの結果が完全に正しいとします。
その場合、低濃度(0.5, 1 µg/mL)のBNT162b2を添加した細胞では、BNT162b2を添加していない細胞(Ctrl)と比較して、LINE-1 mRNAの発現は低い結果が得られていますが(図3)、LINE-1 タンパク質(ORF1)の発現はCtrlよりも高くなっている(図4b)ことに疑問が生じます。
LINE-1 タンパク質(ORF1)はLINE-1 mRNAから翻訳されます。一般に、mRNAの量が少なければ、そこから翻訳されるタンパク質の量も少なくなります。
この結果の食い違いには、合理的な説明が必要です。
最後に。この論文では、BNT162b2の中の配列の一部(全長の約10%)を増幅するプライマーを設計し、PCRを行っています。
(画像:https://www.mdpi.com/cimb/cimb-44-00073/article_deploy/html/images/cimb-44-00073-g001.png)
図5は、PCRにより増幅されたDNA断片を電気泳動した結果になります。
『バンド』と呼ばれる灰色~黒色の線がDNA断片を示し、バンドの色が濃いほど、DNA断片の量が多いことを示しています。(LはDNAラダーの略で、DNA断片の長さを確認するための「ものさし」の役割を果たします。)
(画像:https://www.mdpi.com/cimb/cimb-44-00073/article_deploy/html/images/cimb-44-00073-g005.png)
電気泳動の結果、BNT162b2を添加した全ての細胞(BNT)でバンドが見られましたが、私は、BNT162b2添加から48時間後のバンドが全体的に薄くなっていることが気になりました(図5下段)。
もし、BNT162b2がゲノムDNAに組み込まれたのであれば、バンドが薄くなる(=組み込まれた配列が容易に排除される)ことはないと考えられます。
このバンドが、何らかのアーティファクトである可能性は否定できません。
まとめます。
・BNT162b2は、癌細胞株で元々活性化されているレトロトランスポゾンの働きにより、部分的に逆転写された可能性があります。
・ただし、これは一過性の現象である可能性があります。
繰り返しますが、この論文では「mRNAワクチンがヒトゲノムに組み込まれた」ことは示されていません。そのことは、この論文の著者も論文中に明記しています。とても大事な文章です。無視しないでください。
「とある癌由来の細胞株を使ったら、こういう現象が見られた。」
今は、その程度に留めるべきではないでしょうか。
私は、他の細胞、主に正常な細胞(非癌細胞)を使った実験が必要だと思います。
それは私から言うまでもないことで、論文の著者もDiscussion(考察)の最後で、その実験の必要性を認めています。
※ この記事は個人の見解であり、所属機関を代表するものではありません。
※ この記事に特定の個人や団体を貶める意図はありません。
※ 文責は、全て翡翠個人にあります。
以上。
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追記)一般に『ワクチン懐疑派』あるいは『慎重派』として認知され、反ワクチンの支持者もいる実名の専門家の解説ツイートを紹介します。
図5のバンドの薄さに関する指摘に同意します。
したがって、この論文については、以下の結論が正しいと考えられます。
「無視してよいと思います。」
免疫学の専門家のご意見です!ぜひ参考にしてください。
私のようなmRNAワクチンを接種した側で、『プリオン仮説』の科学的根拠を否定している人間が、反ワクチンの中で浸透した言説を鎮静化することは非常に困難です。
懸念されているように、この論文によって反ワクチンの科学的リテラシーの低さが露呈しています。
ぜひ、ワクチン慎重派からの積極的な呼びかけをお願いしたいと思います。
追記)3月に公開された記事を紹介します。他の実名の専門家(クイーンズランド大学のRhys Parry博士ら)の意見も参考にしてください。
私の記事で言及していなかった1点について、簡単に紹介します。
・培養細胞(HuH-7細胞)に添加したmRNAワクチンの量が、生理的条件と比較してはるかに多い。
実験では、0.5, 1, 2 µg/mLのmRNAワクチンを、約20万個のHuH-7細胞に添加しています。論文の著者は、この3点の濃度を選択した理由について以下のように説明しています。
肝細胞(肝癌細胞)に対して、100 µg/mLの100分の1、すなわち1 µg/mLを中心に0.5, 1, 2と濃度を設定したことは合理的であるように思われます。(私も一応筋は通っていると思いましたし、分子生物学実験では、結果を見やすくするために薬剤などを高濃度で扱うことは一般的なので、特に気にはなりませんでした。)
しかしながら、上記の記事は、この点について指摘しています。
実際に、肝細胞に届くmRNAワクチンの量を計算してみたいと思います。
ラットを用いた薬物動態試験では、体重約500 gのラット一匹に対して50 μgのmRNAワクチンを筋肉内投与した結果、その最大18%が肝臓に分布することが分かっています。(ちなみに、肝臓以外の各臓器への分布は、脾臓1%以下、副腎0.11%以下、卵巣0.095%以下であることが分かっています。)
(画像:https://www.pmda.go.jp/drugs/2021/P20210212001/672212000_30300AMX00231_I100_2.pdf)
薬物動態試験での投与量をヒトに当てはめると、体重60 kgに対してmRNAワクチンは6000 μg(6 mg)となります。これでは直接的な比較はとてもできませんが、この結果を基に、成人一人当たりの投与量30 μgのうちの18%、5.4 μgが肝臓に届くと仮定します。
肝臓を構成する肝細胞の数は、2500億個とされています。したがって、生理的条件下における肝細胞20万個当たりのmRNAワクチン量は、0.00000432 μg、4.32 pgとなります。
確かに、あまりに現実とかけ離れた条件で実験をしていると言えるでしょう。ごもっともな意見だと思います。