山田監督の頃を振り返る
星野監督の退任後に後任の監督に決まったのは山田監督でした
山田久志氏は2年間監督を務め、野手陣では荒木、井端、福留を主力選手に育て上げるなど
中日の黄金時代の影の立役者ともいえる監督です。そこで山田監督の2年間について振り返ってみましょう
悲運の監督
山田監督が就任してある事件が起こります。それは阪神の監督に就任した星野仙一氏が中日の2軍監督に内定していた島野育夫氏の強引な引き抜きでした
当然これには山田監督と中日球団は反発し断固として反対しますが最終的には島野氏が阪神のヘッドコーチとして就任する事で話がついてしまいます
ちなみに山田氏と島野氏が仲が悪かったという話がありましたが山田氏はそれを明確に否定しています。その後に星野氏は色々あって中日のOB会を除名される事に・・・・
またドラフトでは中村剛也を希望していたのにスカウトの独断で寺原隼人(くじが外れたため前田章宏を指名へ)を指名されるなどドラフトでは希望した選手を指名できませんでした。それでもFAで横浜から谷繁を獲得する事に成功します
幸先の悪い船出の2002年ですが投手陣は川上、朝倉が二桁勝利を挙げてギャラードがセーブ王のタイトルを獲得
野手陣は福留が首位打者を獲得するなどもあり順位も巨人に独走を許したとはいえ前年の5位から3位と上がる事になりました。
そんな順調にできたチーム作りが出来た山田監督ですが、このオフに不運な事が
中日が当初獲得を表明し契約をしたケビンミラーをマーリンズがウェーバー公示をした際にレッドソックスに横取りされるケビンミラー事件が起きてしまいます。
当初は中日球団それに反発しケビンミラーを支配下登録までしましたがMLB選手会の圧力など様々な要因が重なり結局断念する事に、その後中日が獲得したのがアレックスオチョアでした。
それでもは山崎とのトレードで平井を獲得し近鉄から大塚、阪神からバルデス、阪神でかつてプレーしていたクルーズを獲得するなどの補強をして2003年のシーズンに望みますが
投手陣は川上と朝倉と言った選手たちの故障者が相次いで先発陣が崩壊し、打撃陣も福留が35本塁打を打つ活躍をしたもののアレックスが極端にチャンスに弱かったりやクルーズが期待外れに終わるなど攻撃不足に悩まされチームは5位に低迷し、山田監督はシーズン途中に解任されてしまいます。
その後は佐々木恭介ヘッド兼打撃コーチが監督代行となりチームは阪神の独走を許しながらも、11勝5敗1引と善戦して最終的な順位を2位となりました
ちなみにその時に球団が山田監督に自分から休養を申し出たにするようにと申し渡され、それに山田監督が激怒したと言う経緯がありました
そして次の年の2004年は後任に落合監督が就任し山田久志氏が作ったチームを活かしてリーグ優勝をして、中日の黄金時代が始まる事になります。
不運が重なったとは言え
コーチが強奪されてドラフトでは希望した選手を指名できず外国人補強で大騒動がおきるなど、不運が多かった山田監督ですが
監督を退任する事になった事については山田監督に責任がなかったと言いうわけでもありません
采配については当時は勉強不足だったためにどうこう言う事は出来ませんが
監督時代は良かった選手を褒める一方で期待を裏切る事になってしまった選手を容赦なく糾弾すると言うスタンスを取っていて、投手の中には打ち込まれたら無視された選手もいたとか
その為、多くの選手と確執を生む事にもなり山崎がトレードで移籍したりやギャラードが退団したりとチームを去る選手も何人もいました
球団が理不尽な要望をしたとは言え、途中解任は選手やコーチたちの溝が出来たしまったのも原因の一つと言えるでしょう
黄金時代を語るうえで山田監督の存在は否定できません
しかし山田監督には星野監督や落合監督の様にチームを一枚岩にして優勝する力はありませんでした。
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