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異世界探索記16 ディアデムの花

旧ser.16「ディアデムの花」(2020年3月21日公開)より

ディアデムの花 

私の場合は、「この地球という場所を味わいつくすということが、どのようなことなのか」を理解するのに時間がかかりました。
 地球を体験しよう、もっと味わおうとするほどに(それは無意識的な欲求でしたが)、抽象的に説明すれば、私は「より一層の悲しみを抱えながら生きなくてはならない」とか、「物事や社会のことが何も見えず、判断ができないままで生きなくてはならない」、そのように思えてならなかったのです。想定しうる最悪の状況を体験することが、私が地球を味わうために必要なことだと感じられました。
 あらゆる問題や苦難に私は直面し、時にはその解決に、地球時間で言う10年以上も費やし、やっとのことでそれらの問題を解決し、苦難から解放されたとしても、より一層の問題や苦難を想像してしまい、結果として、それを体験してしまったのです。
 恐ろしいのは、問題や苦難が無くなり、晴れ渡るような気持になり、全てを冷静に見渡せるようになったとき、「この地球上の不幸とは、全体を見渡せない偏った状態で生きることである」ということを薄々と分かりはじめ、そのような生き方をして苦しんでいる人々に、「自分の生きる基準」を合わせなくてはならないような気持になってしまうことでした。例えどんなに偏った状態であったとしても、そこに幸福を見出せるようにならなくてはならないという究極とも思える矛盾の中で、私は生きようとしたということです。
 地球におけるあらゆる不幸が、偏った世界の眺め方やものの考え方から発生しており、そこから抜け出すことによってのみ、幸福な状態を体験できるのにも関わらず、地球を味わいつくそうとすればするほどに、私はその状態を否定しなくてはならないような気持になったのでした。
 私はその矛盾した状態のままで、痛みを抱えながら、暗闇の中を手探りで生きていました。そして絶え間ない慰めを、自分自身に与えなくてはならなかったのです。そして私にとっての慰めは、絵を、特に花の絵を描き続けることでした。

 私は自分が落ち着きを取り戻せることは何かを探し求めていました。そしてある日の早朝、いつもはそんなことはしないのだけれども、急に思い立ち散歩に出かけました。その薄青暗い早朝の散歩道で、輝いて見える白い花を見つけたのです。私はしばらくその花に見入ってしまいました。何か、見えない力をまとっているかのように見えました。何もかもが空虚に見える日常生活の中に、干からびて見える世界の中に、一筋の命の光が差し込んだようでした。それから私は、何日も早朝の散歩を続け、次第にその花が醸し出す力のようなものを、描いてみたいと思うようになったのです。
 最初の頃は写実的に、ただひたすら、写真のように描こうとしました。様々な花の絵を描き、その再現度が高まるほどに、私は高揚感を覚えました。私はほぼ実物と変わらないくらいに描けるようになりました。しかしここで私は、これだけでは満足できない自分を発見しました。これだけでは満たされないのです。何か私の中から、あふれてくる力を感じ、それを解放し楽になるためには、もっと何か別のやり方で描かなくてはならないのを感じたのです。しかし全く事態はよくならず、しばらくして、私はスランプに陥りました。早朝の花を見ても、夕暮れの花を見ても、日常の景色のように、色あせて見えるようになりました。これまで語りかけてくれた花たちが、私にそっぽを向いているかのようでした。(星の子たちのほとんどがそうだったように)私は日々の生活や労働の中で干からびており、さらに唯一の潤いの時間さえも失ったと思ったのでした。地上生活は破綻し始め、私は限界を迎えていました。
 昼夜が逆転し、社会活動には参加できなくなり、いつしか私は夜空を見上げて散歩するようになりました。何夜も散歩するうちに、それほど輝いているわけではないのに、気になる星を見つけ、それを見上げては歩いていました。理由もなく懐かしさを感じ、不思議と安らぎを覚えたのでした。そんな日々を過ごす中、ある夜、不思議な夢を見たのでした。
 その夢は、ただ言葉にして語るにしてはあまりにも美しく、幻想的でありつつ、迫りくるリアリティーがありました。私はその夢を記録に残そうと思いましたが、ただ文章で書くことに抵抗があり、私にできる限りにおいて、感じたことをそのままに表現したいと思いました。私は初めて、自発的に詩というものをしたためました。

青く深く透き通る空気が
山間に流れる清らかな川を厳かにし
川辺に広がる花畑に咲く数多の花は
仄かに暗い空間の中でその輝きを放つ

私はゆったりとした歩調で
緩やかに上っていく坂道を登り
道端に咲いている花に手を伸ばし
何気なくその1つをもぎ取ろうとした

すると黒くしなやかな長髪を足元にまで伸ばした
色艶やかなドレスを身に着けた女神が
そっと手を差し出し
私のいたずらを制止した

その花はまだ咲き切っていないからと
言葉はなくともその優しさが伝わり
私は少しはにかみながら
どれも大切な花なのだということを知らされる

ふと見渡せば、広い花畑には
同じ長い髪、美しいドレスを身に着けた女神たちが
そこかしこにいて水やりをしている
1つ漏らさず全ての花が咲くように

私は一言もしゃべらず花畑を眺めながら
なおも緩やかな坂道を登っていき
目の前に小さく丸くまとめられた花畑を見つけ
一輪の花が少ししおれているのに気づいた

私は真摯に且つ、いたずらな気持ちのままで
その筒のように細長く、白と黄色の模様のある青紫の
少ししおれた花を両手で包み
目には見えない繊細な振動を注ぎ込んだ

その青紫の筒の花は速やかに瑞々しさを取り戻し
生き生きと存在感を放ち始める
女神たちが私を円状に取り囲み、私が満足を感じてほほ笑むのを
静かに柔和に喝采した

 私はこの夢を見て起きた朝を境に、人生が一挙に変容していくのを体験しました。何度も何度も、あの花と花畑を、清らかな川を、女神たちをスケッチブックに描きました。そして久しぶりに散歩に出かけたある日の早朝、目に映る花々が、かつて感じたような瑞々しさを取り戻していました。そしてそれ以上に、一つ一つの花の中に物語があり、女神たちの息吹があることを感じたのです。これは例え話のように思えるかもしれませんが、実際にそのように感じたのです。そして視野を広げたとき、その花々だけでなく、その小道、林道の木々、薄暗い空、そこに瞬く星たち、すべてがそれぞれの輝きを際立たせ、迫力をもって私の存在の中に飛び込んでくるような感覚に襲われました。私は、「そうだったのだ」と言葉にならない理解を得ました。敢えて言葉にするならば、私は私でありつつ、決して孤独ではなかったのだということを。
 私は再び、花の絵を描き始めました。次は思うまま、花を写し取るのではなく、私の思うままに描いたのです。しかし「私の思うまま」描いているはずが、実はそれは同時に、「花がこのように描いてほしい」という気持ちをそのまま受け取っているような強い感覚を覚えていました。私の描きたいことと、花が描かれたいことが、一致しているという状態を経験したのです。
 私は描いているとき、喜びに満ち溢れていました。もう描けないことは何もないということもはっきりと分かりました。それはあたかも食事を採ることのごとく、私にとって自然なことであり、私が私として存在するために必要なことだったのです。描く喜びが私を存在させるのです。
 私は、私がこれまで地球において何をしてきたのか、どのような状態にいたのかを、絵を描きながら体で理解しました。私は私のことを忘れていたこと、霊や魂を忘れていたこと、創造し続けることが私を私でいさせることを忘れていたこと。逆に言えば、私が部分になってしまっていたこと、ただ同じことを反復する存在となっていたこと、ただの反応だけで生きる機械のようになっていたことを。
 私は花を描くことで、花に新しい命を与えました。そして花は描かれることによって、私の魂に力を与えました。花は描かれることを待っていました。私は理解しました。私と花は別々の存在ではなく、つながっており、協力しあうことによって、花が完成するのだと。
 このように花々を描き続ける中で、光の声を聴き、柔らかに羽ばたく妖精たちを観察し、私はやがて、あの女神たちの姿を、花の周りに見るようになりました。あの物静かで勤勉で美しい女神たち。私はそのことに驚きはしませんでした。描き続ける中で、その描いている花を中心として次第に景色は変わっていき、あの夢の中で見た美しく清らかな川が流れる花畑に私はいました。だから私の描いた花々は、その道端の花を描いたものでありつつ、女神たちの世界を描いたものにもなったのです。そしてある日、私は、私もまた女神たちと同じドレスをまとっており、同じ姿になっていることに気づきました。そう、あの孤独な夜道で見上げ続けた星、ディアデムが私の故郷だったのです。
 私はすべてを思い出しました。そして地球の花を描き続けることを通して、私なりに地球を味わい尽くすことができたわけです。私は地球に、ディアデムの花畑をもたらしました。

 これが私の地球での体験、私のケースです。全てを思い出してからは、社会生活を送るということは、私にとってどうでもよいこと、適当に合わせるだけで良いものであるということが分かりました。
 私から、これから地球に向かうあなたたちに伝えたいことはこのようなことです。地球では必ずと言っていいほど、記憶が無くなります。そして地球を味わい尽くすということは、地球に成りきってしまうことではありません。地球は常に、地球にやってきた私たちを、地球にしてしまおうとしてきます。つまり私たちを物質的で、偏った存在形態にし、本来の私たち自身を忘れさせようとするのです。この強すぎる重力を味わい尽くそうとして、完全にその重力になされるがままにされていったとき、私たちの忘却は進み、最終的に、「味わい尽くすための主体」すら、解体してしまいます。地球ではこのような言葉がありました。「ミイラ取りがミイラになる」この表現がぴったりだと思います。地球を味わう主体を完全に見失ってはいけません。それはつまり、地球に完全に同化しないままで、地球に生存するということです。
 あなたたちは、あなたたちの源である星を、地球上に、あなたたちのやり方でもたらしてください。それが地球を味わい尽くすということです。私が花を描くことで、ディアデムを地上にもたらしたように。
 うまくいかないからと言って、地球の存在を憎しみの対象にしても何にもなりません。私たちは、好き好んで、かの地に遊びに行くだけであって、地球には地球の意志、やり方、存在形態というものがあるからです。私たちの在り方を押し付けるのは、筋違いというものです。広大な宇宙の片隅にある、類稀とでもいうべきワンダーランド。あの恐ろしい日々は、全てを思い出してからだからこそ、楽しかった思い出として語ることができます。

あとがき


 この作品と中に出てくる詩は、私の中で別のものとして表現するつもりのものでした。詩のほうが先にできていました。変成意識で実際にディアデムを体験した時のことを詩として表したものです。すでに「ser.13 promenade」で紹介したものです。このレポート風の物語を書いていくうちに、これら2つを組み合わせようと思い、このような形に仕上がりました。
 詩で描いたディアデムは、身体(エネルギーボディー)丸ごとでのリアルな体験です。一方で私は絵を描くのは好きではありますが、上手ではないので、この物語の「花の絵を描いた」というのは私の空想からのものです。絵心があるならば、ディアデムでの体験を、私もそのまま絵に描いてみたいものです。変成意識での体験の時、私はおそらく人間の男性の姿でしたが、このレポートの人物は女性という設定ですので、絵に描くとやや趣が変わるかもしれません。
 彼女が体験した苦痛な地上生活の様子はジオセントリック的生き方の側面、絵を描くことですべてを思い出し創造主体であり続けた様子はヘリオセントリック的生き方の側面という説明をすることも可能だと思います。ヘリオセントリックにたどり着いた時、ジオセントリックは、ただ地上に停泊するための錨の役目に見えてきます。錨自体に目的があるのではありません。
 この作品は、短いのにも関わらず、まだ私が把握しきれていないことがあります。その辺りを、次回作以降のテーマにしたいとは思っていますし、この体験をモチーフにして、まださらに何かできるのではと感じています。

編集後記:この作品は「星の子のレポート2」です。

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