クローン04 第1話
一 ただの道具だから
人は何のために生まれてくるのだろう。
何のために生きているのだろう。
私にはわからない。
私はただの道具だから。
遅くにのぼり始めた欠けた月が、ようやく頭上へと差しかかろうとしていた。
その冷たい光が、一人の女の姿を浮かび上がらせる。
リンスゥは一人、高い壁の上にたたずんでいた。
ここを住処にする野良猫が、見慣れぬ闖入者に警戒の視線を送っている。
はたちを少し過ぎたと思われる整った顔立ち。
ぴたりと密着する闇夜に溶ける濃紺の衣服は、すらりと伸びる肢体を包んでいる。
なめらかなうなじにかかる短い髪が、風にさらりとゆらいでいる。
ここはやかましくさわがしい夜の街から少しはなれた、静まり返った再開発予定地区。せまい入り組んだ街路と古い建物がひしめいていた。
再開発の名目で住人が立ち退かされてからずいぶんと経つ。だがその計画は収賄が明らかになって以来、中断されていた。それからただ荒れるに任せた街なみ。はがれかけたコンクリート。生いしげる雑草。切れた街灯は交換されることはなく、生きている明かりは残り少ない。そこかしこに深い闇がひそむ。
遠くからかすかな銃声が散発的にひびいていた。
そこにパトロールドローンのサイレンがいくつも重なる。何か大きな事件が起きたようだ。
ただそれは、すっかり治安の悪くなったこの辺りでは、さしてめずらしいことではない。闖入者には警戒感を示す野良猫でさえ、その音にはさしたる興味を示さない。
そう、いつもの風景なのだ。
当事者たち以外にとっては。
リンスゥがふと、小首をかしげた。
押さえた耳元を見ると、小さなイヤホン。目をつむって、どこかからの声に耳をかたむけている。
そしておもむろにまぶたを開くと。
リンスゥは、動いた。
暗い道の奥から、二つの人影が息を荒げ走ってきた。
「くそ! あいつら今日おそってくるなんて……」
「どうするよ、仲間はみんな散り散りで……」
「とにかく逃げるのが先だ! 見てろ、いつかぶっ殺して……」
人相の悪い男二人組。手には銃を持っていて、その筋の者だと一目でわかる。どうやらどこかで抗争があり、そこから逃げてきたようだ。
男たちは壁の上の人影に気づかない。そのままその下を通りぬけようとしていた。
それは一瞬の出来事だった。
走る男の背後に、音もなく降り立つ。
男の首筋から血飛沫が飛び散る。
返り血が頬にはねる。
男の身体から力がぬけ、膝からくずれ落ちた。
ためらいなく命をうばったリンスゥの手には、肉厚のサバイバルナイフがにぎられていた。長めの刀身は闇になじむよう黒くコーティングされ、そしてのたうつような曲線をえがいている。その刃にべっとりと、今付いたばかりのしたたる鮮血。
まがまがしいとさえ言えるそのナイフの印象とは対照的に、それを手にするリンスゥは整った顔にまったく表情を見せず、ただ男たちを見つめている。
「何だ、お前……!」
もう一人の男があわてて銃を構える。
リンスゥはたじろぐことなく一瞬にして間合いをつめる。その手首に漆黒の刃一閃。
骨まで斬られた手首は、銃の重さで傾ぎ、傷口を開いた。命をつなぐ赤い液体が、脈動に合わせリズムを刻み、ふき出した。
胸倉をつかむ。壁に押し付ける。喉元へナイフを押し当てる。
流れるような一連の動作。その間リンスゥは顔色一つ変えない。
「うあ……」
首筋に冷たいナイフの刃を感じ、男はおびえた。
「あ……」
男の目をリンスゥはじっと見つめた。
死を目前にし、その瞳には様々な感情が表れる。
恐怖、焦燥、絶望。
そして渇望。
……何を求めて?
「おい!」
道の向こうから女の声。二人の男を追ってきたようだ。
リンスゥと同じ顔をしていた。
同じ輪郭、同じ目鼻、同じ髪型。
同じように整った顔立ちだが、ただ、その表情はちがう。彼女はいらだちをその顔にあらわにしていた。
「何をしている! 早くやれ!」
「ひいいっ!」
その言葉にはじかれるように、男はリンスゥの手をはらい、走り出した。
その瞬間、リンスゥはナイフを左手に持ち替え、素早く振り向いた。
ひゅっとするどく空を切りさく音。月明かりに漆黒の閃光が弧をえがく。男の首筋がぱっくりと割れ、頚動脈から鮮血がふき出した。
そのまま二、三歩足を進めると、ゆっくりとくずれ落ち、地にふせる。
「く……は……」
一つあえぐようにして、息絶えた。
自らが黄泉へと送った男を見下ろすリンスゥ。その表情は変わらぬまま。
かなしみもあわれみも、何一つその瞳には浮かんでいなかった。
「通報が入ったようだ。引き上げるぞ」
声をかけられ、リンスゥは振り返る。遠くひびいていたパトロールビークルのサイレンが、こちらに向かってい少しずつ大きくなっている。
二人はその場からはなれ、夜の闇へと消えていった。
その場にはまだ温かい二つの死体と、闖入者の騒動を静かにながめていた野良猫だけが残された。
もう深夜だというのに人通りは絶えない。千鳥足の男。すがりつく女。そこかしこからわき上がる甲高い嬌声。
混沌とした夜の街。ところせましと中空にかがやくホログラムの看板が、辺り構わず光をまき散らし、その印象を殊更に強くしている。
動画広告の美女がいっせいにほほえむ。深いスリットの入った赤いドレスから、なまめかしい脚をのぞかせる。その肌にほられた文字列が、はがれるようにしてめくれ上がると、店の名が大きく映し出された。
極彩色の光と、それにふち取られた影。まさにこの街の本質を表す光景だ。
そんな歓楽街の中にある、ビルの一つ。その界隈に乱立する中層階の雑居ビルと同じように、テナントが各階に入っているように見える。
しかし実態は、裏社会の組織、ジンロン会の拠点。一階の店舗の奥の扉、上に上がる階段、そういった要所には周りの享楽におぼれる者とは明らかに異質な目付きの男たちが配置されていて、辺りに目を配っていた。
そこをぬけて上がった上層階の居住区画。その通路は、表の明滅するホログラムの光に照らされ、薄暗くゆらめいていた。
そこを歩く人影。先ほどの二人。女がきつい声音で問う。
「さっきはどうした?」
「え?」
声をかけられたリンスゥが振り向く。
「何をぼんやりしていた? 命令は敵構成員の殲滅だった。取り逃がすところだったぞ」
厳しい視線を女は送る。
だがそれに動じることなく、ただじっと、自分と寸分たがわぬ顔を見つめ返すリンスゥ。口を開く様子はない。
しびれを切らしたように、女があごをしゃくって返事をうながす。
「いや……別に……」
ようやく一言つぶやき、言葉を継いだ。
「なんでもない。それに、あの前に手首の腱と同時に動脈を斬っていた。どちらにしろ、そう長くはなかった。問題ない」
扉を指してたずねる。
「先にシャワーを浴びても?」
「……ああ」
リンスゥは、いぶかしげなままの同僚の視線を気にせず、脱衣室へと入った。
返り血が赤黒く固まり、こびりついた服を脱ぐ。下着もいっしょに洗濯機に入れる。シャワー室へ入る。栓をひねって温水を出す。手や顔に付いた血を落としていく。
濃紺の衣服に包まれて細く引きしまって見えたその身体。解き放たれた今は、なめらかな曲面を見せ、ずっとやわらかい印象だ。ふっくらとしてなお張りのある肌を、湯が伝い水滴となってしたたる。
リンスゥはシャワーヘッドを見上げ、頭からお湯を浴びながら、ぼんやりと考えた。
私はクローンだ。
元となる遺伝子に手を加え、特定の用途に向けて能力を強化された個体群……。金で売買され、国籍を持たず、公には存在を認められていない。
しかし私たちのシリーズは人気で、多様な用途向けに開発が成されており、街を歩けば時折、鏡でも見るように同じ顔に遭遇する……。
それどころか、ここには彼女のシリーズが五体、納品されていた。
栓を閉じて、シャワー室から出る。洗面台の鏡に映る、ほんのりと上気した女性の裸体。
じっと自分の顔を見つめる。
よく見かける、自分であり他人であるその顔を。
「04(リンスゥ)号の様子がおかしい?」
その階上、オフィスの一室で、組織の首領フェイと幹部クァンが話し合っていた。
二人は幼い頃からの付き合いだ。この混濁とした街でのし上がろうとちかい合った仲。首領と幹部という肩書きはあるが、今でも近しく、何でも話し合える。年上で悪知恵の働くフェイをクァンは立て、腕が立ち実行力があるクァンをフェイはたよっている。
今日の襲撃の結果をクァンが報告中。ジンロン会の虎の子の戦闘用クローンの一人、リンスゥの不調が話題となっていた。
「ああ、ふだんの様子は変わらないし、検査の数値におかしいところもないんだが、最近決断がにぶる場面が増えた。今日もあったそうだぜ」
「ふむ」
フェイは葉巻をくわえ、太って肉がだぶつく顎をこすりながら、しばし考え込んだ。突然思いついたように問いただす。
「まさかひとなみに、仕事したくない、五月病だとか言うんじゃないだろうな」
「さあな」
クァンは筋肉質の肩をすくめてフェイの言葉を受け流した。フェイも自分の出来の悪い冗談が受けなかったことに同じように肩をすくめて、近くの長椅子に勢いよく腰を落とす。その体重で長椅子はぎしりときしんだ。長椅子の抗議の声を気にすることなく、フェイは足を組み背を預けて、ぐちをこぼす。
「あの個体は能力高くて、なかなかの当たりだと思ったんだがなあ。安定していると評判のシリーズなのに」
「まあ、工場で生産されたクローンとはいえ、生き物だしな。設計通りとは行かねえさ。で、どうする?」
フェイは腕を組み、今一度考え込む。
「仕事はこなせてるんだな?」
「ああ」
「じゃあ、しばらく様子を見てだましだまし使おう。ひどくなったら仕方ない、廃棄だ。この辺りのシマを手中にできるか、今が山だからな。戦力はおしい」
「わかった」
トウキョウはアジア一帯で最も発展し、最も安全と呼ばれた都市だった。だがそれは過去の話。新興国の勃興に飲まれ、国家の衰退と共に治安を維持する力も失い、種々の勢力の浸透を招いた。
今この街は、大陸各地から集まった裏社会の勢力が跋扈する、暴力都市である。力のある者が権益をにぎり栄える街。その勢力争いが連日絶えない。
その中で戦闘能力を強化されたクローンは、戦局を左右する存在として重用されていた。
リンスゥも、その一人だった。
その日が来るまでは。
広がる夜景の中、そびえる高層建築の群れ。
その建物の一つ。壁面に人影が三つ。しがみついているふうではなく一見宙にただよって見えるが、目をこらせばその身体に伸びるロープに気づく。
屋上からの懸垂下降だ。特殊作戦で使われる技術だが、その足取りは確かだった。このような行為に付帯する、これから起きる荒事にも慣れていることを推察させる。
三人はほどなくその足を止めた。
まだまだ高層階で、ビル風にあおられる不安定な足場。しかし、それをさして気にする様子もなく、一人がとなりの男の背負ったバッグから、束ねた棒状の物を取り出す。
棒はつながっていて、広げると一辺一メートルほどの四角い枠になった。それを窓にはりつける。コードをつなぎ、手元にスイッチをにぎる。
他の二人に目配せし、うなずくとスイッチを押す。
かわいた炸裂音がして、窓ガラスがその枠に沿って割れた。
三人はすぐさまその穴から部屋へと突入した。
そこは寝室。可塑性爆薬の爆破音と、割れたガラスをふみしめる音に、ベッドで寝ていた男が飛び起きた。
「な……なんだ、お前た……」
即座に一人が飛びかかる。窓から入る月明かりに照らされたシルエットは女性のもの。
しなやかで、それでいて瞬速の身のこなしで、腰の後ろからナイフを引き出す。一気に首元に突き立てる。
「きゃ……」
となりに寝ていた女が身を起こして悲鳴を上げようとした時、すっとその背後に入ったのはリンスゥだった。
抱きかかえるようにして、胸元を一突き。一瞬身をふるわせた女の身体から、すぐに力がぬけていく。
二人とも即死だった。
「よくやった! 後はこいつのデータを落として……リンサン、外の様子に注意していろ」
「了解」
リンスゥとリンサン、二体のクローンの指揮を取るのはジンロン会の幹部クァン。ただ裏社会に身を置いているだけではなく、軍での専門的な訓練を受けた経験もあるようだ。身のこなしや指示を下す様子に安定感がある。
組織の命運を分ける夜襲は、まずその第一段階を成功裏に終えた。クァンは被害者の荷物をあさると、タブレットを引っ張り出し、自分の端末にデータを落とし始めた。
ここは上階がホテルとなっているオフィスビル。ただし大陸資本の所有で、その見た目ほどきれいな場所ではない。立派なオフィスの中にも、裏社会に通じる組織のフロント企業が多く混じっている。
最近新たに大陸から進出してきた組織が、ここに居を構えた。こちらでの勢力を拡張するつもりだ。当然地元既存勢力との縄張り争いが生まれ、その抗争は激化の一途をたどった。その隙に漁夫の利を得ての拡大をもくろんでいるのが、リンスゥを所有するジンロン会だった。
その混沌の中、ジンロン会と兄弟関係にあった別の組織が寝返るという情報を得た。同時にそこの首領は対抗組織の保護下に入り、その組織の者が警備にあたる、このホテルへ身をかくした。
裏切りに対する報復、そして今後の敵組織への攻撃を有利に運ぶための情報を得るのが、今夜の目的だった。
フェイがその情報を求めて、データを確認していく。他にも何か役立つものがないか、辺りを調べはじめた。
その姿を視野の端にとらえながら、リンスゥと同僚は警戒に当たる。ただ、その姿勢に熱意は感じられない。淡々と申し付けられた任務をこなすのみ。
それが道具としての、正しい姿勢。
これまでは、それが、正しい姿勢。
それが、小さなほころびを見せた。
「ふぁ……」
か細い声にリンスゥが気づいた。
鮮血に染まったベッドの脇に、その風景にそぐわぬベビーベッドがあった。
毛布をはぐ。
小さな赤ん坊がいた。
「ふにゃ……うあ……?」
寝ぼけまなこでリンスゥを見上げる。
「あー」
おおいかぶさりのぞき込む人影を母親とかんちがいしたのか、小さな手を伸ばす。
本当に小さな手だった。
血色のいい福々しいかわいい手。その手が何かを求めるように、リンスゥに向かって差し出されている。
見入るリンスゥ。
彼女の中で何かがゆらいだ。
「何をしている?」
「あ」
外の様子を確認してきたリンサンが部屋にもどってきた。問いかけに、リンスゥはとまどいながらベビーベッドを指した。リンサンもその中身に気づく。
「子供が……」
「殺せ」
「え?」
リンスゥの肩が小さくふるえた。
「こんな小さな子供も?」
「当然だろう。私たちの受けた指令は、ここの関係者をすべて殺すことだ。小さな子供でもやつらが担ぐ神輿にはなる。指令の意図をくめば、禍根を残すべきではない」
リンスゥはためらいながら、ナイフをぬいた。ひた、と赤ん坊の首元に刃をつける。
「ふぁ……あ……」
その冷ややかな感触に、赤ん坊が泣き出した。
「あー」
大きな泣き声。
リンスゥはどくんと脈がはね上がるのを感じた。
指先がふるえる。
息苦しい。
自分の不調にとまどう。周りの人間が不調と感じていても、今まで自分ではそう考えていなかったのだ。だが、今は明らかに、身体の反応がおかしい。
泣き声がぐわんぐわんと頭の中で反響し、彼女の思考力をうばっていく。
小さな伸ばされた手。
何かを求める手。
……何を求めて?
「何してるんだ? さっさとしろ」
リンサンの声にいらだたしさが混じる。それでも動かないリンスゥを見ると、リンサンはため息をついた。リンスゥの不調は他のクローンたちにも知れていた。またそれが起きたのだろうと考えた。
「もういい、お前がやらないなら私が……」
リンスゥを押し退け、場所を代わると、ナイフをかざす。
空気がひゅうと鳴く。
一筋の赤い線が走ったかと思うと、首筋が割れ、鮮血がほとばしる。
おどろきとともにリンスゥを見つめる、リンサン。
「……あ?」
おのれの首筋を押さえたその手の指の間から、ぼたぼたと血がしたたる。自分の身に起こった事を理解できず、大きく目を開いてリンスゥを見つめたまま、リンサンはゆっくりとくずれていく。
最後の意識に残ったものは、リンスゥのこわばる顔。
どさりとリンサンは倒れた。
「リンスゥ?」
その音を聞きつけ、クァンが振り向く。そこには倒れたリンサンと、その周りに広がる血だまり。そして血ぬられたナイフをその手に持ち、立ちつくすリンスゥ。
クァンも即座には何が起きたのか理解できなかった。ただ、この状況で考えられる事は一つしかない。
「……裏切りか!」
銃を上げる。返事を待たずに引き金を引く。
とっさにかがんで銃撃をさけるリンスゥ。手に持っていたナイフを横なぐりに投げる。
窓から差し込む月明かりに、一瞬刃先だけがきらめいて、ナイフはクァンの腰に突きささった。
短く悲鳴を上げ、身をよじるクァン。リンスゥは落ちていたリンサンのナイフを拾い腰の鞘に収めると、小さな赤ん坊を抱き上げ、かけ出した。
「待てっ!」
その後姿にクァンが追撃の銃弾を撃ち込む。しかし、腰にささったナイフのもたらす激痛が、正確な射撃を阻害した。
弾はそれ、リンスゥはそのまま部屋を飛び出す。
クァンは通信端末を取り出し、不測の事態に備え街角に姿をまぎれさせて待機している部下へと連絡した。
「ヤンか? リンスゥが裏切った! 今子供を連れて外へ出た! 始末しろ! 構わん! 裏切ったんだよ!」
エレベーターに乗ろうとしたリンスゥに、クァンの怒声がかすかに届いた。
リンスゥは眉をひそめた。
裏切るつもりはなかった。
ただこの子の伸ばした手を見た時に、彼女の中で何かがゆらいだ。
その手の先にある物を、うばってはいけない。
その先にあるものが何だかわからないまま、ただその想いだけが彼女の身体を突き動かしたのだ。
エレベーターが一階に着き、扉が開いた。深夜だというのにまだまばらに人がいるエントランスホールを突っ切る。その中には敵組織の警備の者もいるのだろう。深夜、毛布に包まれた赤ん坊を連れてホールを走る女という異様な光景に、その者たちが異常を察知して身構える。
リンスゥは玄関を出た。
「いたぞ! 撃て!」
見つかった。
クァンに呼ばれた部下と、道をはさんで鉢合わせになった。彼らはリンスゥの姿を認めると、激しく銃弾を浴びせてきた。
リンスゥは身をすくめ、玄関の柱の影へとかくれる。銃弾は柱をたたき、後ろのガラスにも銃痕をうがつ。
「回り込め! 逃がすな……」
この事態に、ホールも騒然としていた。関係ない者は突然の事態に状況が把握できず、悲鳴を上げてその場にしゃがみこむ。何とか逃げ出そうとはいずるように壁のかげへと進む者もいた。
人々にまぎれていた護衛たちは、このために備えていただけあり、反応は早かった。続々と銃を構えて集まってくる。
「おいっ! 上、やられてるぞ!」
「何!」
「やつらか……!」
「撃て!」
「やっちまえ!」
ビルの向こうからも護衛たちが現れる。彼らは事の詳細は知らない。ただとにかく、今銃撃を加えている者が敵である。
裏切ったリンスゥを仕留めに来たジンロン会の増援部隊は、正面ホールと側面からの攻撃にも対処しなくてはいけなくなった。本来は今回相手どるつもりはなかったのだが、相手の本拠地を荒らしていることは確かだ。こうなった以上、穏便にことが済むわけがない。
飛び交う銃弾、ひびきわたる怒号。だれもが平静を失っている。
混乱に乗じてこの場をはなれようと、リンスゥは柱のかげからかけ出した。
リンスゥを追う銃弾もいくつかあったが、銃撃戦の主体はもう他へ移っている。背後にその音を聞きながら、リンスゥは振り向かず、ただひたすらかける。
どれぐらい走ったのか、強化され常人よりも優れた体力を持つリンスゥでさえ息が切れてきた頃、大きな公園にたどり着いた。
ここまで十キロ以上走っただろうか。大きく息をはずませ、速度を落とし、後ろを振り返る。
耳をすましても、さすがにもう射撃音は聞こえなかった。
公園入り口の大きなアーチ。扉の鉄柵は閉まっていた。逆にここの中ならだれにも見つからず、一息つけるということだ。
リンスゥははずみをつけて鉄柵にとびつく。片腕は赤ん坊を抱いたまま、もう一方の手で柵の上部をつかみ、身をひるがえして敷地内に降りた。
静まり返った深夜の公園。
細い月が東の梢の上に顔をのぞかせている。
芝生の中を伸びる一本道は、森の中へと続く。
その深い森の木立を、風がゆるやかにゆすっていた。梢のこすれる小さな音が、辺りにぽつりぽつりと落ちてくる。
その森の中へ、息を整えながらリンスゥは歩いていく。
汗のしたたるその肌を、風がそっとなでていく。
その時、赤ん坊を抱えた腕に、ぬるり、とした感触があった。
リンスゥはあわてて視線を落とす。見ると赤ん坊は青ざめた顔でぐったりとしていた。
毛布をはぐと、脇腹から出血。赤ん坊の産着に大きく赤い染みが広がっている。
いつだ? あの銃撃で? かばっていたはずなのに!
胸元に手を当てる。
呼吸はない。
鼓動もない。
「……死んでる……」
冷たくなった小さなその手を、リンスゥはきゅっとにぎった。
心をかなしみが満たした。
静寂の中、立ちつくしたまま。
時間が止まったように、立ちつくしたまま。
やがてリンスゥは顔を上げた。
そのまま公園の奥へと向かい、しげみの中へ入る。
道から外れた木立の下に適当な空き地を見つけて、そっと赤ん坊を地面に下ろした。
ナイフで地面をほり返す。
落ち葉の積もった地面はさほどかたくはなく、刃はすんなりと入ったが、そう幅のないサバイバルナイフでは、スコップのように簡単に大きな穴はほれない。
幾度も幾度も刃を突き立て、もう片方の手も使いながら、少しずつ穴を広げる。
汗をぬぐう。その手には赤ん坊の血がついている。
しばらくそれをくり返し、ようやく望みの大きさの穴をほることができた。
ほり返した穴の底に、そっと赤ん坊を横たえる。
「すまない……」
ささやくような小さな声で、赤ん坊に語りかける。
伸ばした手の先を、守ってあげたかったのに。
その小さな手が求めたものを、守ってあげたかったのに。
土を静かにもどしていく。
小さな身体が少しずつ土くれにかくれ、やがて見えなくなった。
全ての土をもどして、小さく盛り上がったささやかな墓を作った。
名も知らぬ赤ん坊の、リンスゥだけしか知らない墓。
ふと後ろを振り向くと、そこに花壇があった。
花が咲いている。
白い可憐な花だった。
リンスゥは立ち上がり、その花壇に歩み寄ると、そっと一本手折った。
立ちもどり、土を盛っただけの墓に、静かに手向ける。
知らず一粒、涙が頬を伝った。
そのまましばらく、その花を見つめる。
やがて、立ち上がり、踵を返して歩き出した。
後ろには小さな墓。木立からもれる月明かりに、白い花が薄くぼんやりと浮かび上がっている。
「さあ……これからどうしようか……」
リンスゥはだれへともなくつぶやいた。
もうジンロン会にはもどれない。裏切り者を組織が許すはずもない。かといって、他の組織に身を寄せることもできないだろう。彼女はクローンだ。身元が知れないというだけで、訳あり品だとすぐにわかる。事情を知ればなおさら、やとうにはリスクがあると判断されるだろう。
ああ、いや、そういうことじゃないな。
リンスゥは、思考を自らさえぎった。
元にもどれないのは、単に所属の話ではない。
あの手。
あの手の先に、ゆらいだ自分。
あの感情を知らなかった元の存在には、もうもどれない。
リンスゥはまだ暗い夜空を見上げた。
人は何のために生まれてくるのだろう。
何のために生きているのだろう。
私にはわからない。
私はただの道具だったから……。
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銃と宇宙 GUNS&UNIVERSE
2016年から活動しているセルパブSF雑誌『銃と宇宙 GUNS&UNIVERSE』のnote版です。
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