陽光の復活~冬至とクリスマスに寄せて~
川瀬流水です。今年も色々な出来事がありましたが、残りわずかとなり、新しい年への期待と不安が胸をよぎる頃となりました。
年の瀬の区切りのひとつに「冬至(とうじ)」があります。今年は、12月21日(土)でした。
この日、北半球では、太陽の高さが一年中でもっとも低くなり、お昼が一番短くなります。
そして、この日を境に、徐々に陽(日)が長くなる「一陽来復(いちよう・らいふく)」となります。
我々の日々の営みを生み出す太陽の働きを考えるとき、そのパワーは、冬に近づくにつれて徐々に弱まり、冬至に最弱の極に達します。そして、この日を境に、その勢いを取り戻していく、このサイクルを、変わることなく繰り返しているのです。
日本神話のなかでも、よく知られたもののひとつに「天岩戸(あまのいわと)神話」があります。
『古事記』によれば、高天原(たかまのはら)に上った建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)が数々の乱暴を働き、姉神である太陽神、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が岩屋戸(いわやと)に籠ります。
すると、世界は暗闇に包まれ、夜ばかりが続く常夜(とこよ)となりました。困った八百万神(やおよろずのかみ)が相談をして、太陽神を岩屋戸から導き出す手立てを講じます。
まず、夜明けを告げる常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)、根こじにした真賢木(まさかき)と、それに取り付けられた八尺勾玉(やさかのまがたま)の玉飾り、八尺鏡(やたかがみ)、木綿の白和幣(しらにきて)、麻の青和幣(あをにきて)などの仕掛けを用意します。
そして、閉じられた岩屋戸の前で、天宇受賣(あめのうずめ)がエロティックな踊りを披露し、神々が歓声を上げます。
不審に思った太陽神が、岩屋戸を少し開けて、天宇受賣に騒ぎの訳を問うと、外にはあなたにも増して尊い神がおられるからです、と答えます。
用意されていた八尺鏡に映る自らの姿を見て、さらに岩屋戸を開けて進み出たところを、控えていた天手力男神(あめのたぢからをのかみ)に手を取られ、引き出されてしまいます。こうして、世界はおのずから照り輝き、明るくなりました。
天岩戸神話が表している自然現象といえば、太陽が月に遮られることによって引き起こされる「日食」、あるいは「冬至」に、思いをはせる人も多いのではないでしょうか。
20世紀前半から中頃にかけて、文化人類学や民族学・民俗学の各分野にわたり横断的研究を行った石田英一郎(1903~1968)は、『桃太郎の母 ある文化史的研究』(講談社、1972)に収められた「隠された太陽ー太平洋をめぐる天岩戸神話ー」において、この神話とよく似たモティーフをもつ物語が、アジア・北米両大陸の北太平洋沿岸、さらには東南アジアにかけて広く分布していることを、指摘しています。
彼は、火と日(太陽)そして光の概念は、しばしば融合すること、それらは岩屋や何か入れ物のようなものに隠され、やがて解き放たれること、そのためにはある種の道具・仕掛けが必要とされること、そして踊り、とくにエロティックな踊りを通じた高揚感(回春)が解放の契機となること、を挙げています。
今回は、彼が紹介している事例のなかから、ふたつ取り上げます。まず、アメリカ・カリフォルニア州西岸のシンキョーネ族の事例です。
人間がまだ火を持たなかった昔、ある泣き叫ぶ子どもがいました。彼は、普通の人には見えない火を見ることができました。それは、蜘蛛の膨らんだお腹の中に隠されていました。蜘蛛は、夜になると火を身体から取り出し、日中は再びお腹のなかに隠しました。コヨーテに導かれた多くの鳥や獣は、蜘蛛を笑わせ、口から火を取り出そうとしましたが、うまくいきませんでした。最後にスカンクが呼ばれ、尻尾を立ててクネクネトと踊りながらやってきました。するとみんながどっと笑い声をあげ、蜘蛛もつられて笑ったので、口から火が飛び出しました。
次は、中国南部・貴州省の花苗(ホワミャオ)族の事例です。
(弓の名手が天にある九つの日(太陽)を射る物語に続いて、)残り1個の日を射ようとしたとき、それは山の後ろに逃げ去り、世界は漆黒の闇に包まれました。国王は、賢者を集めて相談し、声音の大きな動物に日を呼ばせることにしました。色々試しましたが、うまくいきませんでした。最後に牡鶏(おんどり)が鳴いたところ、日が東方の山頂から少し顔を覗かせたので、世界はパッと明るくなりました。
石田は、天岩戸神話をはじめ、こうした様々な事例を通じて、「衰えた冬至の日にせよ、蝕まれていく日蝕の太陽にせよ、再びこれらが元の烈日の光に復するという神話は、太陽の復帰を希求する人間の力で促進せしめようとする呪術的な儀礼のうちから、生まれたものであろう」と推察しています。
冬至の日の数日前、いつも通る駅前でフリーマーケットが開かれていて、有機農法で育てたという美味しそうなカボチャを購入することができました。また、生まれ故郷の広島に住む友人から、新鮮な柚子(ゆず)とレモンを送ってもらうことができました。
カボチャ(とうなす、なんきん)は、長持ちするうえに栄養価が高く、名前に冬至の「と」、運気の「ん」がともに入る縁起ものとして、冬至に欠かせぬ行事食となっています。
冬至の夜、小豆粥(冬至粥)にカボチャの煮物、それに「と」に因む湯豆腐と唐辛子を添えて、いただきました。
食後に、お風呂に柚子を浮かべて「柚子湯」を作り、入りました。柚子は、その強く芳しい香りから、邪気を祓う力をもつとされます。これで、インフルエンザもはねのけられそうです。
イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスは、キリスト教を信仰する国々では、春のイースター(復活祭)に次ぐ重要な祭祀日と考えられています。
クリスマスの起源については、諸説あるようですが、概ね4世紀頃には、既にヨーロッパで始まっていたと言われています。
帝政ローマの時代、冬至に近い12月25日に、太陽信仰のミトラス教(ミトラ教)による「光の祭り」が行われていたようです。やがて、ローマ皇帝は、イエスを「光」と捉えるようになり、冬至における光(太陽)の死と再生の物語をイエスに重ね合わせて、12月25日をイエスの降誕祭と定めたともいわれています。
クリスマス・イブの日、神戸を代表する教会のひとつである「神戸栄光教会」を訪ねました。教会堂は、兵庫県庁の南側道路に面して建てられています。(後述「神戸三ノ宮駅周辺図」の左側上段参照)
栄光教会は、関西学院の創立者であるウォルター・R・ランバスを初代牧師として、1886(明治19)年に創立されました。
赤煉瓦の美しい教会堂は、1922(大正11)年に建てられましたが、阪神淡路大震災で全壊しました。
私は、大震災発生の直後、朝6時過ぎに、急ぎ職場に向かう車のなかで、教会の異変に気づきました。
左側の塔が、根元からポッキリと折れて、隣接する道路をふさいでいる状況を目にしたとき、神戸の街が置かれている事の重大さに戦慄したことを想い出します。
教会は、2004(平成16)年に再建され、陽光に映える元の姿を取り戻しました。塔の最上部には釣鐘が設置されており、祝祭時等に趣のある音色を神戸の街に響かせてくれています。
教会を後にして、クリスマスのイベントが行われているメリケンパーク(上図の下段左側)に向かいました。幻想的なライトアップに彩られ、様々なイベントが行われていましたが、今回は、東岸の「震災メモリアルパーク」を訪れることにしました。
新年は、大震災が発生してから30年目にあたります。
市内で大震災の痕跡をみつけるのは困難になりつつありますが、メモリアルパークは、当時の惨状を残す貴重な場所となっています。
メリケンパークから帰途につく前、「神戸ポートタワー」を見ておきたいと思いました。
1963(昭和38)年に完成したポートタワーは、双曲面構造による鼓を長くしたような優美な外観で、長く神戸市民に愛されてきました。
阪神淡路大震災にも耐え、被災直後の2月14日からライトアップを再開して、市民に希望の光をもたらし続けてきましたが、老朽化のため大規模改修工事を実施、今年4月にリニューアルオープンしました。
神戸の街は、大震災以来、人口減少も進み、長い停滞のなかにありましたが、近頃ようやく新しいスタートを切ろうとしているように感じています。
クリスマスにみたポートタワーは、漆黒の神戸の夜を照らす灯のように、力強く立っていました。
我々は、毎年、年末に訪れる太陽の死と復活の物語を、とても大切なものと捉えてきました。世界各地に残された神話が示すように、それは単なる自然現象を超えた特別な意味合いをもつものでした。
人々は、太陽の復活に、積極的な働きかけを行い、そこからもたらされるパワーを取り込んで、明日からの生活をより豊かなものにする、今年の歳末は、こうした太陽とともに生きる人間の本来の姿を、改めて垣間見ることができたように思いました。