都市の清流・住吉川を巡る~六甲南麓の災害文化探訪~ 第1回 新緑が美しい阪急以北
川瀬流水です。6月も下旬となり、例年より大分遅くなりましたが、神戸もようやく梅雨入りとなりました。
この季節の六甲山は、アジサイの花が咲き始め、新緑が陽光に照り輝いて、とても美しい風景を醸し出します。
六甲南麓には多くの河川が流れていますが、山が海の近くから急角度でせり上がっているため、いずれの河川も短く、急傾斜で流れ下る形となっています。
とくに、六甲山頂(931メートル)の南に源を発し、ほぼ南北にまっすぐ流れ下って、大阪湾に至る住吉川は、その代表的なものと言えるでしょう。
住吉川は、地形・地質等の地理的条件に加え、生活排水が流入しない等の環境整備がなされていることから、都市河川にもかかわらず、非常に美しい清流を維持しています。
下流域は、日本有数の酒処である灘五郷の「御影郷」(みかげごう)、「魚崎郷」(うおざきごう)の一角を形成しており、白鶴・菊正宗・櫻正宗といった世界的に著名な銘柄を生み出しています。
その一方で、他の都市河川と同様、土石流被害、とくに梅雨末期の集中豪雨による土石流被害に悩まされてきました。
なかでも、1938(昭和13)年7月に発生した神戸阪神地域最大規模の土砂災害である阪神大水害では、甚大な被害を受けました。
同時に、国や自治体、地元市民の皆さんによる防災・減災に向けた不断の努力が重ねられてきた結果、現在では全国有数の対策先進地域となっています。
今回から3回にわたり、六甲南麓随一の清流である住吉川を取り上げ、阪神大水害と流域の豊かな文化の双方にスポットをあてながら、上流部から河口域までを巡る旅に出てみたいと思います。
初回である今回は、上流部から阪急神戸線以北を中心に巡ることにしましょう。
旅に出る前に、86年前に発生した阪神大水害の概要をみておきたいと思います。
梅雨末期、7月3~5日の3日にわたる集中豪雨により六甲全山で複合的な山崩れを起こし、土石流が山津波となって神戸阪神間の諸都市を襲いました。全域の死亡者数が700名を超える未曽有の大災害となりました。
住吉川流域でも、50名近くの死者を出しましたが、とくに山崩れによる土砂の流出は著しく、市街地への堆積量は、神戸阪神間全域の40%近くに達しました。
大水害からの復興のため、全国に先駆けて、六甲山系全域を対象にした国の直轄砂防事業がスタートします。
六甲山系では、その後、昭和36年6月の豪雨災害、昭和42年7月の豪雨災害、阪神淡路大震災と、幾度も大きな災害を経験するなかで、国・自治体・地元市民の皆さんの連携により、砂防・治山・治水の総合的、先進的な取り組みが積み重ねられてきました。
こうした努力の結果、六甲南麓では、土砂災害と折り合いながら暮らす災害文化、とも呼ぶべき強靭なまちづくりに成功しています。
住吉川上流域に、「五助堰堤」(ごすけ・えんてい)と呼ばれる高さ30メートル×幅78メートル、六甲山系最大規模の砂防ダムがあります。1956(昭和31)年の完成時には、いつ満杯になるのかと言われましたが、1967(昭和42)年のわずか1回の豪雨で満杯になり、土砂の流出を防ぎました。
昭和42年災害では、各地に設置された砂防ダムが土砂の市街地への流出を防ぎ、土砂対策事業の有効性を実証する形となりました。
今回の住吉川を巡る旅は、まず現在の五助堰堤をめざすところから始めたい、と思います。
JR住吉駅から、地域のコミュニティバス「くるくるバス」に乗って、終点のバス停(エクセル東)で下車します。(上図「六甲南麓の都市河川群」参照)概ね20分間隔で運行、運賃210円、所要時間約20分
終点のバス停から数分歩くと、五助堰堤に向かう山道「住吉道」に出ます。このあたりの道は、比較的なだらかで歩きやすく、市民の皆さんの格好のハイキングコースとなっています。
しばらく進むと、打越道(うちこしみち)、石切道(いしきりみち)との分岐点に着きます。
ここで少し寄り道をして、打越道に入ると、間もなく小さな堰堤と木橋のある空間に出ます。ちょっと幻想的で、私の好きな風景です。
再び住吉道に戻って、奥に進みます。コミバス終点のバス停から20分くらい歩くと、五助堰堤に着きます。供用開始から70年近くが経過したその姿は、砂防ダムとして果たしてきた重責にふさわしい荘厳な美しさに満ちていました。
堰堤の内側は、昭和42年災害で堆積した土砂のうえに草木が生い茂り、堤内に設けられた木橋を囲むように、背の高い水辺の草が群生していました。
五助堰堤を後にして、来た道を引き返し住宅地まで戻ります。 ちょうどお昼にさしかかったので、市街地まで下らず、このあたりで昼食をとることにしました。
バス道沿いにある和食の店「沖そば」で 、かつ丼とビールをいただきました。年配のご主人の手によるカツ丼は、昔懐かしい味で、とても美味しかったです。
再びコミバスに乗って、住吉川と支流西谷川の合流地点に近い「落合橋」(下図、中央上部)まで下ります。
住吉川は、このあたりで住宅地に出て、扇状地を形成します。落合橋は、その扇頂(せんちょう)部分にあたります。そして、下流は、河床が周辺土地より高い天井川となっています。
六甲山の複合的な山崩れは、1938(昭和13)年7月5日午前9時過ぎから集中的に発生しました。以下、旧甲南高等学校校友会編纂『阪神地方 水害記念帳』(復刻版、以下『水害記録』と略称)を下敷きに、みていくことにしましょう。
山崩れによる土石流は、西谷川(支流)にかかっていた落合橋、及び近くにあった駐在所を、一気に押し流しました。
落合橋から、左側の、住吉川(本流)の方に少し歩くと、大水害の9か月後に建立された「水災紀念碑」があります。台座の右わきに、被災時の最高到達水位が刻まれおり、水害の脅威を後世に伝えています。
落合橋から150メートルほど下ると、住吉川流域を代表するランドマーク「白鶴美術館(本館)」に着きます。
白鶴酒造七代、嘉納治兵衛(鶴翁)が、1934(昭和9)年に開館。青銅器など古代中国及び日本の古美術品を収蔵。国宝2点(書)を含むなど、日本有数の私立美術館です。和洋折衷の建物外観は、圧倒的な様式美に満ちています。
例年、春秋の2回開館展示されますが、今年の春季は3月2日~6月9日で、現在休館中です。秋季は、9月下旬~12月上旬頃と思われます。
大水害では、美術館前の広く深い川が土石流で一杯となり、流水が建物近くまで迫りましたが、周りを囲む高い石垣に守られて被害を免れました。
被災後の1949(昭和24)年、この付近の防災対策として、砂防ダム「白鶴堰堤」が設置されました。
現在では、河川敷の両側に設置された遊歩道とともに、市民の憩いの空間となっています。
住吉川西岸の道路をひとつ西側に入った南北の通りを歩くと、白鶴美術館の新館に着きます。
現代的な意匠の外観をもつ日本初の絨毯専門美術館です。1995(平成7)年、本館開館60周年を記念して建てられました。本館と同様、春秋2季の開館で、現在休館中です。
白鶴美術館の本館・新館を目にするとき、住吉川の清流から生まれた酒造り文化の豊かさと高い美意識に圧倒される思いがします。
白鶴美術館新館から少し下ると「旧乾邸」が見えてきます。1936(昭和11)年頃、乾財閥四代目当主の乾新兵衛(乾新治)の自宅として建設されました。
設計者は渡邊節(わたなべ・せつ)、阪神間モダニズムによる邸宅建築の代表作のひとつと言われています。今年の観覧は5月23日~29日(応募抽選)、現在休館中
20世紀初頭、神戸港の発展とともに、大阪・神戸間を結ぶ都市間電車の運行が始まり、六甲南麓の風光明媚な住環境を活かした郊外住宅地の開発が進みました。
なかでも、住吉川西岸の住吉・御影、東岸の本山にかかるエリアは、阪急沿線を中心に著名財界人が集積し、当時日本随一と言われた富豪住宅地帯を形成するようになります。
朝日新聞の村山龍平、住友財閥の住友吉左衛門(住友友純)、野村財閥の野村徳七・元五郎兄弟、久原財閥の久原房之助、武田薬品の武田長兵衛、倉敷紡績の大原孫三郎、鐘淵紡績の武藤山治、安宅産業の安宅弥吉など、錚々たるメンバーが居を構えました。
富豪住宅地帯の中心部分は、財界人のサロンとして設立されていた「観音林倶楽部」(現住吉学園敷地内)から、住友家住吉本邸にかけてのエリアでした。(住吉川周辺図(JR以北)の中央部分をご覧ください。)
大水害発生後、土石流は住吉本川を流れ下りましたが、ほどなくして現在の西岸、阪急鉄橋の上方付近で決壊、このあたりは天井川となっていたため、土石流の本流は、富豪住宅地帯に流れ込み、その後中心部分を縦断する形で流れ下って、全域に大きな被害を与えました。
旧乾邸も富豪住宅地帯の一角にありましたが、決壊場所より上方に位置していたため、土石流の直撃を免れました。こうした幸運の結果、私たちは、現在でもその壮麗な姿を目にすることができます。
旧乾邸を後にして、住吉川西岸に戻り、阪急から300メートルほど北にある「新落合橋」を渡り、東岸に進みます。
新落合橋から、住吉川の東岸を、さらに300メートルほど上がると、小さな公園があり、そのなかに(国)六甲砂防事務所が1988(昭和63)年に設置した「直轄砂防事業50周年記念碑」があります。
全国に先駆けてスタートした直轄砂防事業の記念碑は、住吉川流域にありました
新落合橋まで戻り、東へ800メートルほど歩くと、甲南大学岡本キャンパスに着きます。1923(大正12)年に開校した旧制甲南高等学校は、現在の甲南大学の前身で、岡本キャンパスの地にありました。
西岸決壊後、しばらくして東岸、現在直轄砂防事業記念碑がある場所の下方付近が決壊、このあたりも天井川となっていたため、土石流は旧制甲南高等学校の方面に流れ下り、学校施設に大きな被害を与えました。
1938(昭和13)年という年は、5月初旬から雨がちな天気が続いていましたが、梅雨末期の7月3日の夜半から断続的に強い雨が降り始め、5日早朝から昼頃にかけて時間湯量20~40ミリ(神戸海洋気象台地点)に達する集中豪雨となりました。
住吉川流域の山崩れは、これと時を同じくするように、午前9時過ぎから集中的に発生し、土石流による市街地の直撃も、午前中の限られた時間に集中しています。そして、午後2時頃には雨はあがり、晴れ間が見えるようになりました。
7月5日(火曜)午前中、旧制甲南高等学校では、第1学期の期末試験が行われていました。土石流は、北側の道路から塀を倒して侵入、校舎の1階部分を土砂で埋め尽くしながら、土地の低い東南方向に抜けていきました。
学内の土砂・流木の堆積は甚大でしたが、校舎躯体の損傷は比較的軽微で、幸いにも教職員生徒は全員無事でした。
復旧作業は、被災直後の7月8日から始められました。当時の保々隆矣(ほぼ・たかし)校長は、赴任した直後でしたが、校長室に泊まり込み、適切な担当作業の分類、偏りのないメンバー構成等に注力し、陣頭指揮に立ちました。
教職員・生徒の皆さんも、一丸となって復旧作業に取り組み、夏季の暑さも考慮して、7日間の短期集中作業により、概ね復旧を終えることができました。
さらに、保々校長は、被災直後から、復旧作業を記録に残すこと、校外被災地も可能な限り調査し記録に残すことを重視し、実行しました。
これに関し『災害記録』のなかに、保々校長の印象的な言葉が残されています。事実を知ることの重要性を、改めて感じることができます。
「當時、縣当局は中央の意を奉じてか、此の災禍を新聞等に喧傳することは、事變下、内外、特に支那に惡用さるるを怖れ、寫眞の撮影を禁じ、又新聞記事を拘束して居たので、東京を首め全國に亘って此惨禍を知る者少なく、(中略)本校は縣当局の厚意と生徒の冒險によりて、比較的多數の材料を蒐め得たる」(原文ママ)
現在の大学キャンパス内に、「常二備ヘヨ」と刻まれた災害記念碑があります。甲南高等学校の創設者で、文部大臣経験者でもあった平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)の言葉です。
甲南大学は、阪神淡路大震災でも、学生・教職員等38名の犠牲者を出す甚大な被害を受けました。被災から2年後の新校舎再建の際、57年前の平生の遺訓を思い起こし、次世代につなぐメッセージとして建立されました。
今回の投稿の最後に、石碑に刻まれた碑文をご紹介します。
「天の災いを試練と受け止め 常に備えて 悠久の自然と共に生き 輝ける未来を開いていこう」
住吉川流域は、美しく豊かな自然、都市河川としては類まれな清流を有すると同時に、土砂災害という負の財産も、持ち合わせてきました。
しかしながら、国・自治体・地元市民の皆さんの不断の努力により、防災・減災に加えて、被災経験を、いわば地域のもつ独自の文化に変える強靭なまちづくりが行われていると、実感しています。
次回は、阪急からJR・阪神国道までを巡ります。住吉川流域の文化に欠かせぬ存在である「谷崎潤一郎」も登場しますので、是非ご覧いただければ、と思います。