都市の清流・住吉川を巡る~六甲南麓の災害文化探訪~ 第3回 清流に育まれた酒の故郷
川瀬流水です。六甲南麓を流れる都市河川随一の清流、住吉川を取り上げ、上流部から河口域までを通して巡る旅を続けています。
今回の旅では、流域に大きな被害を与えた86年前の阪神大水害と、流域を彩る豊かな文化の双方に着目しながら、各地を巡っています。
前回は、大水害による被害の中心エリアを一気に巡りましたので、少し長い旅となってしまいました。
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最後となる第3回は、少し趣きを変えながら、JR・阪神国道から河口までの下流域をみていきたいと思います。
参考に、住吉川周辺図を2つ(JR以北、JR~河口)添付します。今回の旅のメインとなる後者は、前回添付したものに少し修正を加えています。
住吉川周辺のJRは、周りの土地より2〜3メートル高い堤の上を走っていますが、川との交差部分は河底(かてい)トンネルで、川の下を走っており、住吉川の河底が、いかに高い位置にあるかが分かります。この状況は、JRが省線と呼ばれていた大水害当時と変わりません。
阪神国道(国道2号)は、JRに隣接する形で、その南側を通っています。前回ご紹介した「くび地蔵」のあたりから神戸都心部に向けて、阪神国道は、かつての西国街道と同じルートとなっています。
住吉川上流には、裏六甲の有馬に通じる道もありますので、このあたりが交通の要衝であったことが分かります。
清流住吉川は、川の両岸に遊歩道が設けられ、市民の憩いの場となっていますが、阪神国道以南には、水辺の美しいスポットが連続し、癒しの空間を創り出しています。
阪神大水害で、住吉川の本川を流れ下った土石流は、落合橋・阪急鉄橋、そして阪神国道に架かる橋(後に再建されて「住吉橋」)と、次々に岩石・流木・土砂で塞いでいきました。
市街地上方にある阪急鉄橋が完全に塞がろうとする頃、住吉川西岸が決壊、旧住吉村の富豪住宅地帯を直撃しました。ほどなくして、さらに上方の東岸が決壊、土石流の多くは、旧本山村を幾筋かに分かれながら流れ下りました。
こうした被害の様相は、市街地中央部を東西に走る省線(現JR)と阪神国道の存在で、一変します。
省線は住吉川の下を走っていましたので、川に沿って流れ下った土石流は、阪神国道に架かる橋(現住吉橋)を岩石・流木・土砂で完全に塞ぎました。あふれた流水は、国道に沿って東西に分流し、これより以南の住吉川の本川は、無水状態となりました。
住吉川が天井川であり、その両側の土手は周辺土地より10メートル近く高い位置にあること、阪神国道以南が無水状態になったことから、川の両岸から数十メートルの範囲は、河口に至るまで、奇跡的にほとんど被害を受けませんでした。
全国屈指の進学校である「灘中学校・高等学校」は、大水害当時(旧制)灘中学校と呼ばれていましたが、現在と変わらず、住吉橋から程近い住吉川東岸の高い土手沿いの地にあったため、被害を免れることができました。
同校の本館は、阪神間モダニズム様式の気品ある佇まいの建築物として、国の登録有形文化財とされていますが、現役で現在も活躍しています。
同校は、1995(平成7)年1月の阪神淡路大震災でも、大きな被害を免れましたが、体育館は臨時の遺体安置所、校庭は自衛隊による食糧配給拠点となるなど、大きな役割を果たしました。
ちなみに、同校から川沿いに歩いて数分のところにある「新反高橋」(しん・たんたかばし)の上に立って、東西に走る鳴尾御影線を眺めると、川から離れるに従い、急に土地が低くなっていることが分かります。
新反高橋から、西岸沿いに歩いて少し下ると、谷崎潤一郎の旧邸宅が見えてきます。
谷崎は、1936(昭和11)年11月から1943(昭和18)年11月まで、関西移住のなかでは一番長く、この邸宅に住んでいました。
「倚松庵」(いしょうあん)と名づけられたこの邸宅は、元々150メートル南にありましたが、住吉川右岸線の道路築造工事のため、1990(平成2)年、現在地に移築されました。
倚松庵もまた、住吉川西岸の高い土手に面して建てられていたので、大水害による被害をほとんど受けることなく、現在に残されました。こうして、昭和を代表する文人の瀟洒な邸宅を、垣間見ることができています。
倚松庵はほぼ無事でしたが、前回の投稿でご紹介したように、当時、谷崎のお嬢さんが、大水害で多数の犠牲者を出した甲南小学校に通っており、被災の様子を体験していました。谷崎の代表作『細雪」の大水害の記述は、彼女が同校で書いた作文を参考にした、とも言われています。
なお、倚松庵の見学は無料ですが、土・日のみの開館(10~16時)となっています。また、定期的に説明会等も開催されています。(要予約)
倚松庵から川沿いに数分下ると「六甲ライナー魚崎(うおざき)駅」そして「相生橋」(あいおいばし)が見えてきます。
相生橋を渡り、東岸の「阪神魚崎駅」の前を通って、北東に数分歩くと「神戸市立魚崎小学校」に着きます。
大水害では、同校は、住吉川東岸の高い土手が低くなるギリギリの端に位置していたため、被害を免れることができました。
1930(昭和5)年に完成した同校の校舎は、大正後期から昭和にかけて活躍した建築家、清水栄二(しみず・えいじ)の設計によるもので、2001(平成13)年に現校舎に建て替えられましたが、旧校舎のデザインが引き継がれています。
魚崎小学校の道路をはさんだ南側に「旧魚崎町役場」として使われていた建物があります。この施設もまた、大水害の被害を免れました。
小学校と同じ清水栄二の設計によるもので、1937(昭和12)年に完成しました。現在は、児童館・地域福祉センター等として、現役で活躍しています。
これまで、阪神国道以南で、住吉川の本川添いのエリアをみてきましたが、これから、その周辺地域の状況をみていくことにしましょう。
住吉川西岸の決壊により、旧住吉村の富豪住宅地帯を直撃した土石流は、省線(現JR)の高い堤を越えて、阪神国道に達します。そして、住吉川本川から分流した流れと合流し、住吉駅とその西隣の「本住吉神社」(もと・すみよしじんじゃ)の間の低くなった道路を中心に南下しました。
こうした流れは、さらに南下し「住吉小学校」付近に達します。同校の施設が土石流の衝撃を受け止める形となったため、周辺の南北地域が、阪神国道以南の被害の中心エリアとなりました。
土石流の内容も変化し、阪神国道以南では、巨岩の類が姿を消し、土砂・家財の破片・流水が多くを占めるようになります。
住吉小学校の校庭や校舎の1階部分は土砂・家財の破片等に埋没、幸い校内での犠牲者は記録されていないようですが、周辺の民家では一家全員が亡くなるなど、甚大な被害を受けました。
現在、同校の道路をはさんだ南側に「(国)六甲砂防事務所」が置かれています。土砂災害に対する砂防事業の重要性を、改めて感じることができます。
これまで、住吉川以西のエリアの被害状況をみてきましたが、以東のエリアについてもみてみましょう。
大水害当時、上流域から阪神国道付近までは旧本山村でしたが、旧制灘中学校あたりから河口にかけて旧魚崎町となっていました。
旧本山村から阪神国道を縦断して旧魚崎町に流れ下った土石流は、住吉川の川沿いより低い土地である東方に向かいました。
土石流の内容も、土砂・家財の破片・流水が多くを占めるようになり、魚崎小学校より東側の低地エリアに土砂等が堆積するとともに、水はけの悪さから、1ヶ月も水が引かないといった被害に見舞われました。
以上、阪神国道以南の状況をみてきましたが、さらに下って、今回の旅の最後に、阪神沿線以南の河口に至るまでのエリアについて、みていくことにしましょう。
この地域は、日本最大の酒どころである灘五郷(なだ・ごごう)のうち、住吉川以西の御影郷(みかげごう)、以東の魚崎郷(うおざきごう)を有しています。そして、酒造施設の多くは、川と海に近い下流域に立地しています。
大水害では、土石流がこのエリアに達すると、次第に勢いが軽減され、土砂の堆積、床上・床下浸水等の被害が中心となります。
酒造施設は、その多くが川沿いの被害僅少地域に立地していることも相まって、軽微な被害にとどまり、酒造りの施設や技術が次世代に引き継がれることにつながりました。
まず、住吉川以西の御影郷をみていくことにしましょう。
阪神は、大水害当時もすでに高架となっていましたが、御影駅で下車して、高架沿いに西に少し歩くと「沢の井」と呼ばれる泉が残されています。
泉の手前にある説明碑によると「(前略)後醍醐天皇の御時 この泉の水で美酒を醸し これを献上した 天皇深くご嘉納あらせられたので 無上の栄誉とし 嘉納をもって氏族の名とした(後略)」とあります。
「嘉納」(かのう)とは「(目上の者が)喜んで受け取る」ことを意味します。御影郷を代表する菊正宗酒造の創業家「本嘉納」(ほんかのう)、同族で白鶴酒造の創業家「白嘉納」(はっかのう)の名の由来とされています。
沢の井の泉は、阪神淡路大震災で一時決壊しましたが、2年後に改修されています。
阪神魚崎駅まで移動し、同駅から住吉川西岸を歩いて10分ほど下ると「菊正宗酒造記念館」に着きます。「酒造りの原点を知ること」をテーマに、様々なコーナーが用意されています。
館内を観て回ったあと、唎酒・物販コーナーで、ここでしか飲めない生原酒をいただきました。菊正宗ならではの爽快な辛口が、とっても美味しかったです。
同記念館は、阪神淡路大震災で倒壊するという被害を受けましたが、4年後に再建されています。
同記念館の入館は無料、年末年始以外は開館(9:30~16:30)、団体の場合予約が必要です。
菊正宗酒造記念館から、西に15分ほど歩くと、国道43号の南隣に「白鶴酒造資料館」があります。阪神住吉駅からだと、南に歩いて5分ほどです。
「伝統の継承」をコンセプトに、かつて使用されていた古い酒蔵が、そのまま資料館として公開されています。
物販コーナーに併設して唎酒コーナーも用意されています。私が訪れた日は、多くのお客さんで順番待ちとなっていたため、唎酒は諦めることにしました。残念!!
同資料館の入館は無料、年末年始・お盆以外は開館(9:30~16:30)、団体の場合予約が必要です。
第1回の投稿でご紹介した「白鶴美術館」は、白鶴酒造七代、嘉納治兵衛(鶴翁)が、1934(昭和9)に開館したもので、大水害にも耐え、現在に至るまで住吉川流域のランドマークとして、その雄姿を誇っています。
また、阪神淡路大震災では、白鶴酒造は、同じ御影郷で「大国正宗」を製造する「安福又四郎(やすふく・またしろう)商店」の木造酒蔵が倒壊、その後廃業の危機に見舞われた際、自社設備を提供し、灘五郷の貴重なブランドを守るという視点から、尽力されています。
これまで御影郷をみてきましたが、今度は、住吉川以東の魚崎郷をみていくことにしましょう。
阪神魚崎駅から南に歩いて5分ほど下ると「櫻正宗記念館・櫻宴」(さくらえん)があります。
櫻正宗酒造は、大水害では、住吉川沿いの被害僅少地域に立地していたことから、大きな被害を受けませんでしたが、阪神淡路大震災では、木造酒蔵が倒壊するという大きな被害を受けました。
その跡地に、櫻正宗の歴史・アイデンティティを継承し、地元魚崎の地域振興の一助とするため、同記念館が開館されました。
記念館内でも紹介されていますが、灘五郷の酒造りに欠かせない「宮水」(みやみず)は、櫻正宗酒造6代、山邑太左衛門(やまむら・たざえもん)が西宮郷(にしのみやごう)で発見、酒造りに使用して好評を博したことから、灘酒全体に広まった、とされています。
同記念館は、そのコンセプトを活かすべく、昔ながらの酒造工程や道具等が展示されていますが、ショップ「櫻蔵」と名付けられた物販コーナーもあります。
そして「櫻宴」という名が示すように、とくにお食事処としての機能が充実しています。
軽食が楽しめる喫茶「カフェ」(10:00~19:00)、カウンターのみの日本酒呑処「三杯屋」(17:00~22:00)、本格的な食事が楽しめる「酒蔵ダイニング」(11:30~15:00、17:00~22:00)と3通りのラインナップが用意されています。いずれも、毎週火曜日定休です。
今回は、喫茶カフェで、人気メニューの「酒粕カレー」をいただきました。灘五郷にふさわしい味で、とても美味しかったです。
先にご紹介した旧制灘中学校は、1927(昭和2)年に設立認可を受け、翌年に開校しましたが、その際、嘉納次郎右衛門(かのう・じろうえもん、菊正宗)、嘉納治兵衛(かのう・じへえ、白鶴)、山邑太左衛門(やまむら・たざえもん、櫻正宗)の3名が主体となりました。
そして、嘉納の同族である柔道の嘉納治五郎(かのう・じごろう)を顧問に迎えて、設立・開校されました。治五郎の言葉である「自他共栄」は、同校の校是とされています。
今回の住吉川流域の旅を通してみるとき、第1回投稿でご紹介した甲南大学災害記念碑の言葉「天の災いを試練と受け止め 常に備えて 悠久の自然と共に生き 輝ける未来を開いていこう」が象徴するように、災害を単に恐れるのではなく、なんとか折り合いをつけながら暮らしていこうという地域の力強さを感じました。
そして、自然(災害)と折り合いをつけながら「輝ける未来を開く」ことができるかどうかは、我々の「自他共栄」でいこうという思いの深さにかかっているように感じています。
櫻正宗記念館を出て、南西方向に歩いて10分ほど下ると、今回の旅の最終ゴールである住吉川の河口に出ます。両岸の遊歩道を通れば、河口ギリギリまで歩いていくことができます。
これからも、何年かに一度は、上流から河口まで通して巡る旅を続けていきたいと考えています。
ちょっと大げさかもしれませんが、「始まりから終わりまで見届ける」という行為が、自分を浄化し、新しい自分に生まれ変われるような気分にさせてくれるのを感じました。