「レディプレイヤーワン」は楽しかった
「レディプレイヤーワン」を観た。(※これは5か月ほど前に書いたものです)
感想をすぐに書かなければいけない。目が疲れてまぶたがピクピクしちゃっているのだが、何しろ翌日は、大ダメージがあると言われている「アベンジャーズ インフィニティウオー」を観なければならないのだ。息子が珍しく「どうしても観たい」と息巻いている。このことは観てから詳しく書くだろう。とにかく「レディプレイヤーワン」を観た。早く書いてしまわないと、翌日以降は余韻が残っておらず、書けないかもしれない。目薬をさして老眼鏡をかけてこの感想文に臨むこととする!
恥ずかしながら私、カタカナを見て「Lady」だと思っていたのだが、「ready」であった。よーいどん!の時の「ready」の意味に近いのかなと思う。しかも「1」というからには、続編を見越しての1作目という意味の「ワン」だと思ったら、どうやら「one」である。ある一人のプレイヤーとか一人目とかの意味なのではないかしら。多分。自信はないけど。私の見解だけど。
映画の前宣伝、テレビ番組やCMで見る度に「面白そう」と思っていた。ゲームの中の世界という意味では「ジュマンジ」も同時期に放映があったが、バカバカしく笑える軽い青春映画に過ぎないのか(全然知らないけど)、「ジュマンジ」はあっという間に終わってしまった。ああ観たかったなあ「ジュマンジ」。いつか観るだろう「ジュマンジ」。いやきっと観るぞ!「ジュマンジ」!!
……で「レディプレイヤーワン」。
まず何から説明するにしても、これはゲームの映画であるということは書かなければならない。それほど詳しくはないけどゲームが好きなおばさんとしては、ゲームをするようになって良かったと思えた。ゲーマー万歳!!!なのである。
ゲーマー集合の場面は圧巻で胸が熱くなった。
ゲームを知っている人たちは、それが違うゲームだとしても何となく仲間意識みたいなものがある。ゲームをしない人たちに、どこか理解され難く、又、子供の教育上良くないとか、おおっぴらに母親としてゲームを一緒に楽しんでいるとか言いにくいムードがあるが、私はゲームをする。そこに、子供が暴走しないように、子供と共通の話題を持つようにという強い気持ちもあることは一応書いておきましょう。それはそれで本当です。でもそれだけではない。子供生まれる前からゲームしてるし。「もちろん」と付け加えるが、私はゲームを相当楽しんでいる。ゲームの世界が好きだ。
オンラインゲームも少し遊んだことがある。オンラインゲームの中でお互いを知らなくても助けたり助けられたりすると、ちょっとした仲間意識が生まれる。プレイが上手な人はその部分だけでも尊敬できる。上手な人のプレイを動画で見たりすることもある。ゲームをしているから=依存してしまうだの、子供っぽいだの、オタクだの、オタクは気持ち悪いだの、色々な固定観念を私は好まない。今どきゲームをする人に対する固定観念は和らいでいる気はしてきているけど、私の年代ではまだまだだろう。そして何事に関しても、すべてを十把一からげにする考え方が好みではない。
ゲームを楽しむ人に対しては、依存的にでもならない限り、私にとって親近感がある。そもそも夫がゲームを好きだったから、私もゲーㇺを好きになった。だけど夫がゲームを好きかどうかなんて、知り合った頃は知らなかったし、夫の遊ぶゲームを見ていて私も遊びたいものが出てきた。ゲームのことはそれほど詳しくないのだけど、いつか書いてみようと思う。
そんなわけで、この映画をスムーズに受け入れることができた。
アバターがいること。アバターは、自分が勝手に作り上げたキャラで現実とは違うこと。VRのゲームが、未来では主流なのかもしれないこと。オンラインゲームで会話を交わすこと。この映画の中の、未来のゲームを観ていると、確かに将来、こんな風になるかもしれないと思う。こういう世界の中であちこち行けて、ゲームがその場所その場所にある。
感心しちゃうのは、この映画の描き方で、ゲームの中の世界と現実の世界の行き来がややこしくならないことである。混乱しないし、ストーリーの流れがわかりやすい。原作もこのような感じなのだろうか。これを文字で書いて読んでもらうとなると、大変な作業のように思えるが、映像にするのも大変なことだろう。想像力やどのように見せて観客を惹きつけるかなど、スピルバーグのその手腕に感心しつつ、爽快感いっぱいに描かれていて気持ち良い。
さらにこの映画で楽しいことは、あらゆるくすぐりが入っていることだ。強く印象に残るのは、「シャイニング」というホラー映画のシーンがそのまま入っているところ。そのシーンがゲームの中に入り込んでいるというわけだ。他にも、ジュラシックパークやキングコング、メカゴジラやガンダム、バックトゥザフューチャーのデロリアンやダンスシーン、ターミネーターのシーン、アキラのバイク、チャイルドプレイのチャッキー、グレムリンなどが出てくる。
映画、音楽、本、ドラマ、あらゆる場面で数十年前のことがパロディや再現として、映像や音楽、セリフで表現されており懐かしい。もちろんゲームも。ゲームそのものだけでなく、ゲームキャラクターも。
自分で気づいたのとパンフレットを読んだのを合わせると、そのくすぐりはとてつもない数で、もはやこれは「くすぐり」ではないくらいだ。「だらけ」だ。
付け加えておきたいのが、主人公の境遇である。両親を過去に亡くしている。彼の孤独を癒すのがゲーム、そしてゲームで知り合う友人たちだ。ゲームで知り合う友人というのは、そう簡単に親しくなるわけではないだろうし、なかなかゲームの世界より外での深い絆は生まれにくいかもしれない。でも中には、本当に分かり合える友人ができることもあるだろう。
「レディプレイヤーワン」でゲームを作ったハリデーと同じように、主人公ウエイドも孤独だった。
この映画で大事な部分は、孤独だけどゲームに救われた人がたくさんいるということ。そしてリアルが大事だということ。のめり込みすぎず、リアルを生き、リアルの世界でリアルのことを考えることの方が刺激的で奥深く、何より大切なものだらけである。両方のメッセージがあることが素敵だ。
インターネットが一般民に普及し始めた頃、私は20代半ばの若者だった。その後、それによって助けられたこと、ゲームに救われたことは山のようにある。夫のおかげで少しは世界が広がって、自分もあらゆることに興味を持って楽しんでいることを誇りに思うことができた嬉しい作品である。笑顔で終われる!