温かい食事のありがたさを思い出して、動いている
24歳になる年の頃。宝塚で仕事をしていた私は、阪神淡路大震災に遭った。
生まれて初めて、電気、ガス、水などライフラインのない状態を経験する。
電気は3時間位で戻ったけど、ガスは1週間ほど使えなかったし、水は1か月近く使えなかった。
お風呂は、電車で幾つか駅を越えて、大阪方面の親せきの家まで入りに行った。でも週に1回だけ。顔を洗えないと、ブツブツと発疹ができる。トイレで流す時はバケツに汲んできた水を、ちょっとだけ勢い付けて流す。
水が出ないのは、食べる物にも影響した。
食パン1斤買うのに2時間並んだりもしたけれど、実際にテーブルに着く時。
幸い私の祖母も母も缶詰をたくさん買いためていた。
それを紙皿に乗せたアルミホイルやラップの上に置いて食べる。食べ終わると洗わなくて良いように。
「何とかなるもんなんだ」
言い聞かせてみても、温かい物が口にできないと、心は少しずつ冷えていくようだった。
地震の被害を、最寄りの駅までの道すがら目にする。電車に乗ってからは、線路の両側にぺしゃんこの家々を見ながら通勤していた日々。そういった所に住む住人がどうだったのかなんて考えないようにした。なるべく無感情に暮らし、擦り切れそうな心を何とか平常に保っていた。
しばらくして祖母の田舎から、見慣れない道具が届いた。
祖母が段ボールから取り出したのは、食材と共に、カセットコンロとカセットボンベ。
今でこそ、どこのスーパーでも目にするし、当たり前に手に入る。買って家に置いている人も多いだろう。でも25年ほど前の当時は、あまり見慣れなくて、使い方もよく知らなかった。
「これを使えば、温かい物が食べれるんだ」
水を手に入れると、それでささやかに鍋物をした。
温かさを口にする喜びが身体いっぱいに染み渡るようだった。
何て気が利いていて、何てありがたい贈り物だろう。
心と体で喜びを感じた私は、人を助けたいと思い、ボランティアに参加した。ボランティア元年と言われた当時、その瞬間に私は立ち会えたのだ。
当時はまだシステムが定まっていなくて、SNSも全然発達しておらず、多くのことがうまく機能していなかった。でも仕事で精一杯だった私でも、この軟弱な身体を持ってしても、人の力になりたいと動けたのだった。
あれから災害をニュースで見る度に、心が痛むばかりで、直接被災地には向かえない。けれど、ささやかに力になればと毎回探りながら、ほんの少しだけでも形にするようにしている。
災害で被害に遭った人がいるとニュースで知る時。何かお手伝いできることはないかなと気負って焦ってしまう時。
親せきの贈ってくれたカセットボンベとカセットコンロのセットを思い出す。
段ボールを開けて、中からそれらを出した瞬間。そして皆で温かいご飯を食べた瞬間の情景が、まだ鮮明に目の前に浮かぶ。
その景色は、その後の私が行動を起こすきっかけとなった記憶。
読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。