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ふだん話す自分も、noteで表現する自分も、ぜんぶ自分

 noteで個人的なやり取りやコメントを交わしていると、自分の思い描く相手のイメージとの食いちがいは、どうしても起きる。
 自分が勝手にいつの間にか思い描いてしまったのだから、相手にとってはいい迷惑なのだ。反対の立場ならすごくそう思うもの。私はいつも通りにしているのに、勝手にイメージを作られて、「ちがった」とガッカリされたなんてさ。

 そんな心の右往左往を友達に話した。
 こんないきさつがあって、私はこんな風にしたけど、相手はああいう態度で、だから罪悪感みたいな後悔みたいな気持ちがあって。それでも関わりたくないのに気にかかる。だけどやっぱりあんなことはしない方が良かったのかな。
 ぐちゃぐちゃな気持ちを友達に聞いてもらったら。
 「かわせみさん、優しすぎる」とあきれた顔をされた。
 

 幼少期から、「優しい」と周りに言われた。それは軽蔑の意味をこめていたり、そんなんじゃなめられるよの言葉が付け足されていたり。だからダメなんだの皮肉がこめられていて、褒められてはいない。
 今回も褒める気持ちは半分……のさらに半分もあるだろうか。それはやりすぎではの気持ちが強いと受け止めた。

 少しショックだった。

 私は優しさでその彼女の近くにいたわけでもなかったし、そんな自覚はなかった。自分の中の冷たい部分なんて、きっと誰もが自分の胸の内を知っている。
 つぶれてしまうその人を見ていられなかったし、流すことができなかっただけなのだ。

 それは優しさ?
 いやあ。単に私がその人を好きったからだと思うんだよ。

 好きだからそんな気持ちを過剰に押し付けていたのかもしれない。
 そんなだからうまくいかなくなった途端に嫌いにはなれない。ああそうか温度差があるんだ。とか、ああそうか距離を取りたいんだ。とか、ああそうかあまり気にされていないんだ。とか気が付くけど、私だってそれなりの態度しかとって来なかったから。相手にとっては同じくらいの温度だと思っているかもしれないよね。

 すべては自分を中心にしか考えられない。
 それに相手から自分がどう見えているかは、私の場合、長い時間かけないとわからない。
 たとえばnoteだと、コメント欄で3,4往復やり取りしたくらいでは、まだよくわからない。「素敵」「優しい」「好き」「友達」「わかる」なんて、付き合いの深さや浅さで簡単に言葉の重さが変わってくる。言葉自体が悪いんじゃない。その言葉を悪者みたいに切り捨てたくない。その言葉をどれだけ信じられるかであって。付き合い方によって、その言葉の放つものもちがうよね。
 自分のnote内ではできるだけ人によって差をつけたくないし、来たコメントの長さと返す長さにそれほど差がないようにしたい。
 誰かのコメント欄に書きこむ時は、その文やイラスト、写真について、よほど書きたい気持ちがある時以外は、元気のあるなしだけに大いに左右されるし。自分の投稿記事のコメント欄での返信とは雰囲気がちがうかもしれない。だって元気のある時に書きこむのだから。
 やっぱりあまり相手の気持ちとか考えていないのかもしれない。
 それで時々失礼なことを書いてしまったり、人のコメント欄なのに自分のことを語ってアピールしてしまったりして、イヤな気持ちにさせてしまうみたいだ。
 それは「あれっ。なんか思ってたんとちがう」と感じる言葉の強さや弱さでようやく気付く。
 (私のコメント欄で自分のこと書くのは、私はめっちゃ楽しんでいるので遠慮せずに書いて下さいね! 返信する人の世界観があまりに強いとどうしたら良いかわからなくなってスルーしてしまうけど……)

 そんなにみんなが同じ温度で、自分や誰かのコメント欄にいるわけではないのだよね。

 別のnoterさんが私の印象を話してくれた。「noteの中だと、受け入れてくれそうな」優しいタイプに見えるとのことだった。

 なるほどねぇ。
 全然そんなことないのだけどねぇ。
 でも「そう見えている」と知るのは貴重な経験だ。周りにどんな印象を与えているのかは、自分を振り返る良い機会。ちょっとハッとさせられた。

 振り返れば「思っていたお付き合いができない」「思っていた人とちがった」といった風に離れていった人たちもたくさんいる。私が自分から遠ざけてしまった人もたくさんいる。
 だいぶ前に書いたから、ご存知ない方もおられるかもしれないけど、私はリレー企画には乗らないと書いた。誰かだけを取り上げる記事を多くは書かないとも書いた。
 当時はその理由も書いたけど、今はそこまで強い思いがないので、「できるだけ」ていどにとどめている。以前ほど頑なではない。
 それにそういう企画に乗ったり記事を書いたりしているのを読むのは、イヤだと思っているわけじゃない。毛嫌いしているのではないので、読める時には読むし、お願いされたら検討します。

 私のnote内でのお付き合いには輪がなくて、直線的なつながり方しかできないのはnoteを始めた頃から書いている。その付き合い方は今も変わらない。
 細かなことを言い出せば、自分の中にこうしない、ああしないは、たくさんある。そういったことは自分の心の中にだけ決めていれば良いと思っている。

 私は母とうまくかみ合わない部分もあるけれど、「かせみは、嫌いな人とか嫌いなことがハッキリしていて良いね」と、幼少期から言われ続けたことには本当に感謝している。
 ニュージャージーで幼い頃に教育を受けたこともあり、そうやって育った私は、イヤだと拒否することにそれほど罪悪感を持たずに済んでいる。そうやって心を守っている。

 だから受けいれてくれそうだと思われても、自分の中で自分なりの制限がある。
 「他の人に対しても似たような関わり方している」「みんなに良い顔している」とか思われても、それは自分本意に、読んでいて楽しいな、見ていて好きだなと思える方に対してだけなので、八方美人みたいに思われても知らん(関西弁で読んでね)。と思っている。「意外と受け入れてくれない」とか思われても知らん。と思っている。

 だから私も、noteで表れる人柄や関わる人を、その人自身のすべてだと思わないようにしたい。

 noteで私を表現する時は、ふだんの自分とはちがう心の内を書きたい。
 ふだん表現できていない心の中。
 日々の生活でやり過ごそうとする態度でいても、私の心の中はうるさくてならない。すべてを書くことはできないからジャーナリングという作業を最近続けている。そうやって個人的なノートにペンで書きこんでいるけど、noteは、その間にある気持ちだろうか。読みやすくという意味で人の目を気にしながら、できるだけ自分の心に起きた気持ちを忠実に、オブラートに包みながら書きたいと思っている。

 だからnoteでは特別に弱々しい部分だとか、本心に近い部分が出ているのだろうと思う。


 「かわせみさん、優しすぎる」と言った友人は、きっと、ふだんの私とはちがう心の内を知って驚いたのかもしれない。その人の思う私は、noteで表現したり人と関わったりする私とちがうのだろう。
 でも私の色々な面を知ってくれているし、信頼関係は築けているので、その一面だけについて言ったのだろうと心の中で落ち着けた。彼女のこともまた大好きなのだ。


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かわせみ かせみ
読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。