HSPの仲間たち
今年はHSP(Highly sensitive personの略)に関して、深く考察できた年だった。
とか書いてみても、別に始終考えていたわけでもなく、考えている間も深く深く潜ってああでもないこうでもないと突き詰めていたわけでもない。
ちょこちょこ考えた。ちょこちょこ思い出して、ちょこちょこ気持ちを軌道修正していった。
回数重ねただけでも、それについて考える機会があるのは、その度にウロウロと歩いた経験となり、経験はそれだけ自分にとって新しい発見となった。
年始に、TEDのスピーチを観て感激した。
HSPについてよくご存知ない方がいらしたら、こちらを読んでいただきたい。
内容を少し抜粋する。
HSPの特徴を「DOES」という風に表現されていた。Dは、depthで、深く分析する能力。Oはoverstimulationで、過剰な刺激により、周りにすぐ圧倒される。Eはempathyで他者の気持ちを感じ取る。Sはsubtletiesで、ささいなことへの気づき。これらが、「特徴としてまとめたもの」。何かや誰かと比べて優れているとか劣っているとかいうことではない。私たちは「自意識過剰な、構ってちゃん同盟の一員ではない」「感情的反応の域をはるかに越えるということが他の人と違うだけであとは他の人と一緒」と訴える。
昨年、noteを始めてから、HSPやHSCについて書いている人たちを知った。自分以外にもいるんだと仲間を得た気分になり、嬉しくて次々と色々なHSP仲間と知り合った。
それもまた視界が広くなるきっかけとなり、思考の積み重ねとなる。
もっとさらっと「個性なんで」と言える環境になれば良い。物理は苦手なんで。くらいに。
そして人それぞれ個性があるとは言え、同じHSPでも段々と、細かに人によって違うんだと知った。HSPではない人とも合う、を改めて感じている。割合として5人に1人と言うくらいだから、知り合いに多いわけではないけれど、HSPで親しくしている友人もいるし、そうでない人もたくさんいる。
「HSPだから」親しくなれるわけではないようだ。相性や気が合うかどうかの問題。
HSPの診断チェック(今回はこちらのページを見つけました。なかなか細やかで丁寧に書かれていると思います。興味のある方はhttps://kiraku-infomation.com/hsp-highly_sensitive_person/#HSP-2)を見たけれど、どこが強く出るかは人それぞれ違う。又、小さい頃は敏感だったけれど慣れていく部分もある。慣れていけるのだったらそれは特性ではないのではと思われそうだけどそうではない。慣れていって、「マシになる」だけだ。
今の私が一番強く出るのは、「何人もの人が集まる所に行くのが苦痛過ぎる」である。
仕事の時は大丈夫だった。日本語講師の勉強とか、塾講師だとか、キャンプのリーダーとか、そういった「目的」が別にあって、親しい人がそばにいて、だとずいぶん気持ちが違う。子供たち相手だと余計にラク。子供たちの心に秘めたるものはあっても、発言にそう裏表がない。損得勘定とかまだ持っていない子が、全員とは言わないけれど多い。だから子供たちの前に立つのは緊張しても、こちらの目的は「教える」。子供たちの目的は「教わる内容を知りたい」(のつもりなんだけど)。だから気持ちに負担がそれほどない。
でも、「ただ会う」とか「相手と知り合う」とか「探る」が目的となると一気にしんどくなる。
だから子供の保護者会なんて、苦痛以外の何でもなかったし、町内会の集まりなんかも色々な思惑が入り乱れていてそれを感じてヘトヘトになる。
ただ。
私たちは、心を読める人ではない。
見透かせる人でもない。
「わかっちゃう」=「その人の気持ち」ではないのだ。
厳密に言うと、「推し量っちゃう」だ。
それが、当たっている場合もある。勘違いの場合もある。当たり前だ。誰だってそうだろう。でもHSPは、自分を疲弊させるほどに推し量ってしまうのだ。それが「考え過ぎ」と言われるゆえん。
私たちは、感じ過ぎている。あっているのも間違っているのも含めて。
少し書いてみても、誰かに聞いてもらっても、まだまだ感情が溢れていて抱えきれないくらいに。一つ一つの出来事に。疲れるでしょう? って聞かれるけど、いやあ疲れる。少しでも軽くしたくて、私は色々な人に聞いてもらう。色々な人が色々な言葉をかけてくれて、ピッタリする言葉に出会うとまたそれで感情がドッと溢れてくる。でもそれが自分の助けになる方法の一つだと知っているので、私はそれに甘えさせてもらう。多分背負いきれない人が出てくるから、時々戒める。でも時々やり過ぎる。
なんて面倒くさいんだろう。
だけど、HSPを抱えてるってそうなのだ。
だから不自由している。別にそんなしんどいものでもないのなら、主張する必要もない。
そして主張すると、「被害者意識だ」「自己憐憫だ」と言われるのも知っているので、言わない人、明かさない人がとても多い。
じゃあ黙っておけば良いのだろうか。
私が割と積極的に話題にするのは、HSP仲間がいるからだ。リアルの生活でも、そしてここnoteでも。noteで知り合った方の中には、こっそり明かして下さる方もいる。私は彼らや彼女らに「良い部分だと信じてるし、きっとこれからも大丈夫。私も仲間だよ」と伝えたい。
前半に書いた「人それぞれ」とは矛盾しているかもしれない。でも出方や出る部分は人それぞれであれ、孤独なのはきっと多くの方が感じているだろう。そして「わかってもらえない」と、その部分を閉じ込めて暮らしている人たちが多い。
noteで、フォローする人やコメントが辛い人の中にも、そういった方たちがいる。そのせいで続けていけなくなる人がいる。
私は書きたい気持ちの方が強いからまだ続けていられる。でもここに来て1年ちょっと程度で何度、人間不信に陥っただろう。もう信じないって何度も思ってしまう。外の社会とは違うと思っていたけど、心を出しているようで探り合う世界はしんどい。でもそれが極端な思考に陥っているともわかっているから、言い聞かせて幾度も気持ちを修正し、頑張る。
HSPじゃない人たちにも、ずいぶんお世話になっている。親しい友達もHSPじゃない人は割といる。夫も息子も、母も違うようだけど、私にとってはそういった人たちの言葉でラクになる場合がたくさんある。
それもまたHSPじゃない人たちに知っておいてほしいのだ。
そして、私は自分の知っているHSPの友人たちもとても愛おしい。
彼女らや彼らが、アナタにとって「親しい友人」である場合だけで良いから、どうか誠実に接してやってほしい。純朴で生真面目、境界線が薄いから、裏表がほとんどないのだ。出せない、って人はいるだろうけど、それはそれまでに傷ついてきたために、おびえているだけ。アナタがどう感じているかをHSPは、文面以上に想像してしまう。そして自分から遠慮して引いていく時も多いだろう。私たちって面倒くさい。ものすごく。それをなるべく出さないように工夫して生きている。だからうまくいかない場合も多い。
そして、理解しなくて良い人にまでわかってもらわなくても良い、とも思っている。だってそういう人たちのいる社会に私たちは暮らしてきたのだし。そりゃわかってもらえたら良いけど、理解しなくて良いと思っている人たちは、理解しようとはしない。
だから私たちはなるべくそういった人たちに近づかないようにすれば良い。その見極めは難しいけれど。私たちが身に付けなければならないのは、傷ついた時にそこから這い上がる力。或いは逃げる力。
人と違うことで不自由している人たちはたくさんいるのに、多数派が「普通」だと、その普通を求められる時。私たちは「できない」と苦しむ。
それが間違っているのではない。それは単なる個性。そこでお互いを理解し合えて、もし別の部分で合うのであれば、その部分で、お互いの気持ちを深め合えたら良い。
私はきっと「あなた」の仲間だ。