親子の会話を存分に
noteで、どこかの親子の会話に楽しくなったり、心がホカホカ温まったり、キュンとしたり。そんなやり取りを読むのが好き。
ななみさんの親子の会話もよくキュンとさせられる。息子くんのかわいらしさはもちろん、それを表現するななみさんの文が楽しい。何年か前にギューン! と強く2度、心をわしづかみにされてから、ななみさんのお母さんぷりと息子くんとの会話に度々身もだえさせてもらっている。
そんな息子くんにも弟ができて、自分は小学校に通うようになり、すっかりお兄ちゃん。
こんなことを聞いてきた。
こんなことを不思議に思ってお母さんに聞く長男くんもかわいいけど、ななみさんの、質問や話の持っていき方が楽しい。
「自分のことを自分って分かった」瞬間なんて覚えていないし、さて私が息子の幼少期に聞かれたら何と答えているだろうと想像してみる。
きっとだいぶ考えてみちゃうだろうな。すごく面白い質問だし。だけどさんざん考えても答えが見つからなくて「ウーン覚えていないよ。わからない」と言った後ですぐ「どうしてそんなこと聞いたの?」と好奇心にかられて聞いちゃうだろう。
そこからは息子の返答によって話の方向性が変わってくるだろうけど、やっぱり私の好奇心も止まらなくて「息子くんはどう思うの?」「何をきっかけに?」「どうしてそんなふうな気持ちになったの?」と単純な質問攻めにしてしまうだろう。そんな会話が私たち親子を形作っていくのだろうけどね。
でもななみさんみたいに上手に質問を重ねていけたらなあ。
最近の息子を見ていて思う。
私が若かった頃に「お母さん、もっと自分の子育てに自信持って私を信じてほしいよ」と思っていたけど、それを自分に当てはめて良いものか。
自分の子育てがまちがっていたなんて思わない。息子はまちがってなんかいないから。だけど、もっとやり方があったんじゃないかって。自分の接し方が至らなかったんじゃないかって。
「後悔したくない」が、幼少期の息子と接しながら、頑張るエネルギーのもとだった。ああしとけば、こうしとけばなんて後から思うのがイヤだからその時の精一杯ではあった。試行錯誤していたし、たくさんの本を読んだり調べたりした。いつも不安だったし、正解なんてないんだともわかっていた。
だけど「ああしとけば」「こうしとけば」は、やっぱり出てきちゃうんだ。
だって「私、わかってなかったな」って思うことが後から後から出てくるんだもん。
今も息子と話していて「あっ。私のこういう言葉はイヤなんだろうな」「なんでこんな押しつけがましい言いかたしちゃったんだろう」「どうしてすぐ自分の話にすり替えちゃったんだ」とハッとする。次は気をつけようと思うのに、クセみたいなものって、すぐに表に出てきちゃう。ごめんねと思うし、気持ちが内側にこもりやすくなった息子に、心配も尽きない。
だから「もっと自分の子育てに自信持って」なんて、やっぱり今の私には向けられない。息子の本質的な部分についての信頼はあるけれど。
ななみさんの親としての言葉や接し方を読んでいて、良いもんだなと思う。こんな風に会話を引き出し、アイディアを出したり、親子を超えたななみさんらしい個性が垣間見えたり。
時には葛藤もあるだろうけど、幼少期の子供との様々なことを大切に味わってほしいな。
noteでお子さんの様子を読んでいると、親戚を見守る感覚になってくる。顔を見たこともないのに、いつの間にか気にとめている子たちがたくさんいる。みんな頑張ったり、楽しんだり、体調くずしたり、親に反抗したり、言うこと聞いたり。日々をどうにか過ごしたりしながら、いろんなことを感じているんだよなあ。
それにしても「自分のことを自分ってわかった」のはいつなんだろうね。考えをめぐらせるのが楽しくて、時々記憶をさかのぼってみたりなんかしている。