その子しか持っていないものは宝物~しつけが後回しになっても~
noteを読んでいると、幼少期のお子さんを持つ親御さんの文章に度々出会う。
まず高校生の息子一人を持つ親として、偉そうなことは何一つ言えない。目の前の子供は一人。自身の子として1パターンしか知らないわけで。それに今も子供は発展途上であり、何より私など30過ぎてから母親に反抗的な態度をし続けてしまった。7年程かけてようやくそこを抜けたのだ。子育ての結果みたいなものは、一生わからないものかもしれない。子供自身がどう思うか、なわけだし。
とりあえず目先のことだけで言えば、今、目指しているものに近づくための、本人の希望に近い大学に行けるのか。一人暮らしは大丈夫なのか。社会人として自分で生活できるようになるのか。ああわからない。なんなら犯罪に巻き込まれないか。悪いことに手を出さないか。もうなーんにも自信がない。なーんにも自信がない上で、でも書きたくて、パソコンに向かっています。
息子に関しては、今の時点では少しは楽しそうに暮らしているから、以前より安心して見ていられる。
今のところの彼は、素直だ。「良い子」という意味ではない。言うことなんか聞く年齢じゃないし、元々言うことを聞く子ではない。でも素直だ。人の話をよく聞いている。聞いた時の反応が素直なのだ。独自の視点を持って、自分の考えや気持ち、意見を言う。
息子が「良い子」でなくて良かったと最近つくづく思う。
幼少期から小学生の後半まで、息子は、しつけを後回しせざるを得ないほど、感情の動きや表現が激しかった。情緒や感受性を育てる方を優先させたかったとは言え想像を遥かに超える激しさ。
元々手先が不器用で、一つのことに集中すると他がおろそかになる息子は、物をこぼしたり落としたりがひどくて、他のことも「きちんと」できておらず、だらしがないと言われたり思われたりしていた。周りに迷惑をかけたり待ってもらったりして、きっとクラスメイトのきちんとした子ほど、息子のことをイライラして見ていたことだろう。保護者の中では、私は「しつけができないダメ母」と見なされていたと思う。
でも私としては周りに迷惑をかけているから大変恐縮しつつ、私に対しては「良かったことだったんだ」と内心思っていた。息子がきちんとできる子であれば、今の息子のような子供のことを私は理解できなかったからだ。そして「親のしつけが悪い」「何でちゃんとしつけないんだろう」と眉間にシワを寄せる人間になっていただろう。その母親や子供の気持ちに思いを馳せられるような人間にはなれなかったであろうから。
しつけ。それ以前の問題なんです。もっと言えば、しつけしている。皆さんに追いつこうと思って常々言っている。でも身につかない。何となく気が付いていた。私が子供の頃に1か月2か月くらいかかって身についたことが、息子はどうやら年単位でないと身につかない。本人が頑張って気を付けていても身につかない。でもそれに対して腹を立てて感情的に怒ったところで、息子には身につかないのだ。怒り続けたら「怒られること」に重点が置かれ、何をやらなければならないか、本質的なことから離れていってしまう。
「何回も言ってるよ!」は、感情的に何度か言ってしまったことはあるけど、その度にそうやって怒ったって無意味だと感じた。そして息子を傷つけているだけだということも感じていたので、いつも謝った。息子は泣きながら「仲直り」と言って抱きついてきた。
怒ったところで身につかない。怒ったところでお互いに傷つくだけ。同じことを毎日、毎回、事務的に言い続ける。
それを言い聞かせて息子に接してきた。そして度々傷つけあうことは少しずつ減っていった。息子のかんしゃくが落ち着いてきたのと、私もひたすら事務的に注意を促すことに慣れていったからだ。小学5年生になっていた。
しつけ方面はそんなだったけど、子供の個性の強さは、宝のカタマリだと思っている私は、人と違うことをとても大切だと考えている。そのように考える人も少なくはないだろうけど、私自身に関しては帰国子女だったことや、私の中の心配なほどの無邪気さを両親が大切にしてくれたことは大きかった。大学の先生から学び得たものも個性についてだったし、卒業論文も個性について書いた。人にはそれぞれ、ぴかぴかに光る金色の個性がある。それを恐ろしいものとして消すのではなく、表に出すことをコントロールしながら大切に育んでいくと良い。マーガレット・マーヒーの「足音がやってくる」を始め、彼女の作品の数々からそういったメッセージを感じた。
そのため、息子は人と違うことを誇らしく思うように接してきた。度々それは「これで良いのか」という、私の強い葛藤を呼び苦しんだけれど、できる限り大事にしてきた。
でも中学一年生の時、「`普通'の子に育ててほしかった」と言われたことがある。これについては何度も議論したけれど、息子のそういった気持ちはわからなくはない。息子の個性は素敵な部分だけど、大事なことは息子の気持ちを尊重することだ。思春期ですしね。
そして、その時期を超えると、「僕はもうこれで良いと思う」と言うようになった。
友達たちに、「何で性格や考え方がそんなに自由なの?」と聞かれたことがきっかけのようだ。息子もそれを聞いて、僕、自由で良かったと思えたらしい。私としても、そんな風に言われたことは心の中でガッツポーズするほど嬉しかった。
今は、「ここは周りと一緒の方が良い」と「これは僕だけなんだ。その方が良い」ということを区別している。それはそれは、なかなか意志を強く持たないとできないことでも「クラスで僕一人でも良い」と自分らしさを誇らしく思っているようだ。
皆と違うということ。その子の個性が強く出ること。幼少期は特に今後が見えないから不安になったり、心配したりは山のようにあると思う。専門家の判断を仰ぐ瞬間が必要になることもあるだろう。息子は1歳前後に一度。あとは小学生の時、スクールカウンセラーにみてもらった。中学一年生の時はもっと本格的な機関のお世話になろうとしたけれど、タイミングが合わず、そのうち息子の方から「やっぱり僕、必要なさそう」と言ってきたので、キャンセルした。本人が生きづらさを感じていなければ、そして周りとそれなりに楽しくコミュニケートが成立していればそれで良いのかもしれない。
私にとっては「その子独自のもの」が強く出ていれば出ている子ほど、可愛くて愛おしくて仕方がない。大人や周りを意識し過ぎた子供は、何かしらのプレッシャーを感じて自分らしさを失いつつある。
親御さんの方でどうか、お子さんの宝物を大事にしてくださいね。しんどそうだったら気軽に専門家の判断を仰ぎ、子供のその時の気持ちを引き出してください。言われなくても……でしょうけど、心配する親御さんたちの気持ちを愛おしく思う、noteやツイッターを読んでの今日この頃なのです。
お喋り過ぎる息子に関しても載せたいので、次回子供のことを書く時に。