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あまり縁がなかった「嫉妬」という感情と、その対処の仕方を知る

「人を妬まぬ者は運がいいだけだ 出会ったことがないだけだ」

 最近「嫉妬」について書きたいなあと思っていたところに、「鬼滅の刃」にこんなセリフを見つけた。この言葉、私にはわかるようで、そうでもない。そしてまったくわからないわけでもない。

 あんまり「嫉妬」とか「競争意識」に縁がない方。そういう感情、成分がないわけじゃないけど、私の中に元々少ないだけ。マウント取り合う空気を感じたら、すぐにその場から離れる。争いたくないのだ。

 嫉妬を感じるはずの場面でも、私は先に「劣等感」や「卑屈」の感情が起きる。自分がダメなんだと、ただ果てしなく落ち込む。脳の中で、嫉妬を感じる部分があまり発達してないのかな。


 幼少期から、兄が自分にはない部分で褒められるのを見る度、「良いなあ」「すごいなあ」の羨望が起きると同時に「私はそれができないなあ」と落ち込んだ。

 卑屈になって自分をどんどん低める。

 自分を傷つけていく。

 「卑屈になるのはいけないこと」と教わり、自己肯定感はさらに低くなっていく。

 妬みの気持ちがなくたって、「運が良い」なんてことはない。恵まれてなんかいない。

 恋愛感情がよく起きた20歳前後の頃も、嫉妬の感情をあまり知らなかったんじゃないかなあ。
 「ヤキモチ」もあんまり焼かない。そういう場面がなかったわけじゃなくて、単に自分が劣っているんだと落ち込むばかりで。

 初めて「あ。これが嫉妬心か」と知ったのは、夫となる彼の車の助手席に、私も知っている友人の女性が座っていた時。
 「良いなあ」「すごいなあ」「私はそれができないなあ」とは違う、何か黒いドロッとしたものが心の中に流れ込んでよどんでいた。お腹のまんなかが重たい。
 いやいやいや。
 私も知っている友達だし。彼女は、彼の友達でもあるし。
 わかっているのに、自分の気持ちを否定しようとしても、その彼女に「なに楽しそうに笑ってるの」とイヤな感情が自分の中から拭えない。

 少し戸惑って、何だろうってずっと考えていた。
 この黒くて、さらりと拭えない感情。嫉妬って何だろう。
 思い返す度、あの時の自分の感情を分析してみていた。

 「その立場に私がいるべきなのに」の感情が起きた時、嫉妬するのかな。言葉の概念てそれぞれだから、誰もがそうとは限らないだろうけど、私にとっては、そうなんだろうなと気が付いた。

 彼と付き合っていたので、そこに座るのは私だけだと自分で思っていたようだ。だから友人を乗せてウチまで送る状況に、今までになかった感情が胸の中に渦巻いた。いやだな、あんな感情。しんどい。

 で。結局その後も、やっぱりあまり「嫉妬」の感情は起きない。
 自分より優れた人に対しては「すごいなあ」「良いなあ」の感情は湧くけど、それは羨望となるばかりでまぶしい。

 でもやっぱりそれが別に運が良いとかラクだとか、幸せなんてことはない。妬みがなくたって充分、卑屈になって自分で自分をおとしめてしまい、暗闇の底をウロウロさまよう気持ちになる。

 ところが、noteを始めてから半年ほどして、「嫉妬」の気持ちを存分に味わう約1年以上が続いた。

 半年ほどしたら、少しずつ相互フォローややり取りする人が決まってきた。ツイッターとも直接ではないけど、つなげていたので、常につながっている感覚ができていった。
 でもツイッターはめまぐるしい。リツイートなどで自分の記事を取り上げてくれたら、それに対しての感謝の気持ちを逃してはいけない、と必死になってしまった。ずっと繋がっている感覚に疲弊していった。楽しい仲間だと思っていたら、仲間同士のマウントもあって、競争意識が苦手な私には、言葉の端々に表れる、人々の感情の駆け引きに心がすり減った。信頼関係があるわけじゃないのに、仲間の顔をしなければ外れてしまいそう。
 その人一人が気に入って信頼関係を築いていきたいと思っても、その周りが大変。嫉妬心があちこちから顔をのぞかせてくる。私にも向けられる。イヤな気持ちになる。

 それに加えて、互いのオススメ。
 自分の文章が大したことないってわかっているのに「こういうのが良いのかあ」が選ばれている時に渦巻く気持ち。

 ああこの気持ち。どこかで経験がある。
 助手席で笑っていた友達を思い出した。

 嫉妬してるんだ。私。

 それから「良いもんだなあ」の文章なのに、嫉妬心が先行するようになって、苦しくなっていった。それは、ずっと繋がっていることと関係していたのかなと想像する。きっと他人との境界線が薄くなっていたのだろう。

 私がそこに選ばれたいのに。私がその立場になりたいのに。醜いとわかっていても湧き上がってきてしまう感情。
 「その立場になりたい」なんて、相手と自分の境界線がハッキリできていたら、思わないはず。
 その人自身に何の責任もなくても、その人を囲む競争意識のある人たちがいるのを感じた。自分を守らないとすべてがイヤになりそう。離れるのは辛かったけど、繋がるのをやめた。


 その後、ずいぶん経ってからだけど、自分の「書きたい」を明確に貫く人たちに、少しずつ意見を聞く機会があった。

 1往復や2往復のやり取りでも、その人のnoteで続ける信念が見えたり、この場にいる正直で率直な気持ちを伝えてくれたり。誤解していた人の気持ちも知ったり。いつもの賑やかな雰囲気から少し離れたところで、それぞれの心のこもった想いを知るチャンスを作った。
 それぞれが、自分たちの世界を築いていると気が付いた。人気があったとて、つながることを積極的な目的としているわけでもない人たちもたくさんいた。「結果的につながっている」だけで。

 note始めてから2年経つ頃、ようやくしんどい気持ちから解放され始めた。
 翻弄される中で必死に自分を保つのではなく、それぞれが自分の足で立っている姿が見えてきて。
 その姿に素直に、「良いもんだなあ」の感情が先行するようになった。「良いもんだなあ」と素直に思えると、「すごいなあ」の気持ちも表に出るようになった。賑やか過ぎる場所は相変わらず苦手なので、加わらないけれど、それは私の性分。嫉妬とは関係なくて。

 嫉妬の感情に支配されていた頃は、その立場に自分がいられるはずでは、の気持ちがあった。
 それはもしかして、自分の力をその分だけ見積もっていたのかな。

 人は自分の力をどれだけフラットに客観性を持って見られているだろう。

 自分を振り返ってみる度に、「私はここで何をしたいのか」と考えるきっかけとなる。

 私は何者かになりたくて書き始めたわけじゃなかった。

 今ここで知り合っている人たちは、自然と関係が築かれていけば良いと思っている人たちが多い。損得勘定なしで、面白いなあって興味を持ち、好きな記事を書く人たち。私はそれが楽しくて続けていられるのだし、「ただ文を書きたい気持ち」は失っていない。
 
 それに気づいてからうんとラクになっていった。

 私ってダメだなあとか落ち込む時もあるけど、書いたり、読んだり、やり取りしたりは、やっぱり楽しい。

負けたくなかったのか?
醜い化け物になっても
強くなりたかったのか?
(中略)
違う
私は
私は ただ
「お前になりたかったのだ」

 冒頭の「人を妬まぬ者は運がいいだけだ」の直前の台詞を一部抜粋。
 「鬼滅の刃」では、弟に嫉妬し続けた兄がいた。彼もその立場に自分がいたかったと、嫉妬をしていたのだろう。その感情を「全身が灼けつく音」だと表現していた。

 もし自分の中に嫉妬心が起きているのかなと感じたら「本当にその人になりたいの?」と想像してみたら良いのかもしれない。
 きっとそれぞれの苦労もあるだろう。薄い境界線で、相手を灼けつくように思い、自分を失いながら日々を送るのは、楽しいことではない。
 自分の感情をしみじみ受け止めて、喜んだり怒ったり哀しんだりを実感して暮らす方が、人生は楽しいだろう。

 私もごく稀に「嫉妬した」と、直接言われることはあるけれど、いやいやそれに値するような人間でもないから。私も日々のこと、文章のこと、身の丈の幸せを感じて暮らしているけれど、アナタも充分幸せに見えるから。私とは違う部分でかもしれなくても。それもそれで羨ましいなと、ほわんとした気持ちになるのよ。

 きっと、人と自分を切り離しているほど、嫉妬心て起きにくいんじゃないだろうか。

 「嫉妬」の感情を存分に味わったことは、愚かだったなあと思うし疲れたけど、後悔もしていない。
 大好きな漫画や映画で、その表現を目にすると、以前よりこみ上げてくるものがあるから。
 人の気持ちがまた一つわかるようになって、以前の私とまったく同じではない。豊かになれたなあって思っている。


 
#エッセイ #感情 #嫉妬 #卑屈 #劣等感 #繋がり方 #書く


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かわせみ かせみ
読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。