お笑いを観ながら考える~それだけじゃないけど「好き」は続ける原動力の一つ~
ただ楽しく大笑いさせてもらっているだけなのに、そこには私の知らない本気の世界があるから、お笑いについて書くのは遠慮や恐縮が伴う。
それでも感銘を受けて、時々どうしても書いてしまう。
「本気」は、笑えたら笑えるほど、その中に紛れてしまう。創り出すものへの真摯な思い。面白いと思うことへの信念。続ける原動力は、「好き」な気持ち。
昨年末のM-1も、大笑いした。
漫才なのか云々の議論には、悲しくなるようなものも多かった。
その議論の中にあるのは、「誰かの思う漫才」かどうか。その定義に沿うかどうかで、自分が納得いかないと叩いたり批判したり。どなたの漫才なら納得するのだろう。それが「正しい漫才」なのだろうか。自分が笑う感覚と人の笑う感覚が違ったとしても、それで良いはずなのに。私だって「好きな漫才」はある。ファンになるかどうかは別として、「この人たちの漫才はいっつも笑う!」ってある。めっちゃ大笑いしているのに、評価されていないと残念だなあって何故だか自分が落ち込む。
だけど賞レースの後、いつも思う。
審査員は、上手くコメントできない瞬間があっても、素人である私たちの想像を超えてちゃんと考えているだろうし、経験だって私たちがどれほど知っているというのだ。
そして自分が演じるのと客観的になるのとではまた違うだろう。様々な思いや好みがあって当然。一致しない方が自然だ。視聴者と審査員全員が一致するって、きっと圧倒的過ぎる時で、それ以外、様々な意見が出ないとしたら、むしろ気持ち悪くはないだろうか。
「この人はこれが面白いと感じるんだ」に、人を意地悪く不愉快に傷つけるものでなければ、正しいとか間違っているとかあるのか。
人と違ったら、それもそれで自分だけの特別なものとして大切にしていれば良いじゃないか。
先日のM-1は、まさにそれを体現したようなものだった。
「M-1アナザーストーリー」を、今回は二度観た。
たくさんのコンビの、たくさんの思いを知る番組。
二度とも、マヂカルラブリーの野田クリスタルの真面目さを感じた。3年前の挫折と、それを何度もさらされたことで、観ている側もその記憶はすっかり強化されている。
初めて知ったのは、3年前よりはずっと前だけど、彼が15歳頃からお笑い芸人やっていたなんて知らなかった。いつも真面目な顔をして可笑しな動きをするから、息子と時々モノマネして笑っていた。相方の村上が、本名「鈴木」って知った時も、家族三人で大笑いしたものだった。近年では「冗談手帖」「冗談騎士」などで観て、「くりぃむナンチャラ」で大笑いさせてもらった。
村上もそうだけど、うまくいっているコンビって、売れるずっと前から相方を「面白い」って信じて、その自分の気持ちに自信を持っているんだなあって、その思いの強さがまぶしい。他のコンビでも見聞きする。
そして誰かが観客に大ウケした時の他のコンビたちの表情が、あらゆる心情を物語っていて、伝わってくる。そんなところでも胸を締め付けられる。
自分たちが創ったもの、面白いと信じているものよりも、別のコンビの面白さを感じ、客のウケ方を肌で感じてしまう。敗北を認めたり、差を感じたり、挫折したり、嫉妬したり、達観したり、諦めたり。きっと今までだって何度も何度も繰り返してきたはずなのに。M-1の大舞台でそれを感じ、その表情をつぶさに撮られ、私たちはそれを目にする。
それでもそれらの思いを乗り越えて、マヂカルラブリーは「最下位の時があっても、優勝することだってできるんだ」と証明してみせた。
前回の最下位から三年。それだけではない。何年も何年も。
好きだから自分が面白いと信じているものを創り出し、それを続ける。
お笑いだけではない。何かを創っている人ならば。
noteの中でみんな、漫画や文や写真や絵を記事にしている。あなただって私だって、文を書きながら、何者かになりたいわけじゃなくたってさ。真っ白なページから創り出しているのだよ。
誰だって、何で続けているの? 意味なんかあるの? って考え込むこともあるだろうけど、きっと溢れる思いを書き綴るだけで、意義はある。
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