これから「文章」をどうしたい?~手紙、投稿、文章と一緒に歩んできて~
「もうちょっと多くの人に読まれたい? 何かにつなげたいならここはどうお?」と夫に勧められたのがnote。
でも具体的に何かを思い描いていたわけではなくて、とりあえずもう少し多くの人に読まれたいと思った。
なんでかな。
文章に対する承認欲求だったのかな。
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ずっと文章は好きだった。
7歳で帰国して、作文の授業があるのがとても嬉しかった。何かを特に教えてもらうことはなかったけど、原稿用紙をやみくもに埋めていき、次の原稿用紙をまた給食台まで取りに行く。帰国子女の私が、いつもやたらに往復するので、教室がざわついた。
でもその頃から読書感想文は嫌いだった。
読書感想文て、評価される。何かのコンテスト物も、こんなの書けないと思っていたし、挑戦しても、素敵な文や褒められる文は書けない。技術的にも、素直さ、表現力、文章力、すべてにおいて上手ではない。もう子供の頃からわかっていた。
わかってはいたけど、でも四年生の頃。日記の提出を宿題とされた。お題を出される日はいやで「自由に書かせて下さい」と書いて、先生から「先生だってちゃんと考えてるよ!」って返事が来た。可愛い女の子に特別ひいきをする先生で、私は好きじゃなかったけど、私の文章を誉めてくれた。
丁寧に日記を読んで、毎回感想をくれたり、「ここの表現は良いね」と具体的に書いてくれたりした。ある日突然、ページの半分くらい使って、これだけ書けるのだから、いつももっと自信を持ってほしいと書かれた。
読書の面白さに目覚めた頃でもあり、「文を書く」表現を自信として楽しもうと少し思えるようになった。素直に嬉しかった。
中学以降も相変わらず書くのが好きな私は、日記や詩を勝手に書いていたし、友達とも手紙を書きまくった。
当時はスマホもケータイもないし、私たちの中高生の頃はポケベルさえなかった。
どんなものか、少しでも世代や地域の違う人、学校が違ってもわからないかもしれないし、男性にはわからないかもしれないので、写真に載せてみよう。
基本はルーズリーフ。
「〇〇へ」って書く場所もこんな風に決まっていて、メッセージを書いていく。
思わぬところで私の字をさらすことになった。以前、そんな企画があったようだけど、みんなよく書いて出したよなあ。私はこうやってどさくさまぎれに書くくらいしかできない。照れて仕方ない! ふはは。
だいたい一番下までいっぱいに書いて、友達に渡す。
ついでだから、私たちの主流だった折り方を披露しよう。
半分に折ってから、さらに半分の所に折り目をつける。
そこに向かって折り、余ったところを縦に折る。
その縦の中に、織り込んだ先を入れる。
これで広がらずに済むのだ。
自分の名前なり差出人とわかるものを書く。絵を描く子もいる。
表は相手の名前や呼び名。……表……なのかどうかは知らないけど。ここに可愛い絵を描く子もたくさんいる。私はその辺が細やかではないので、相手の呼び名を書くだけ。せいぜい文字に装飾を入れるくらいだったと記憶している。
このサイズが、制服だったセーラーの胸ポケットにまたピッタリなのだ。友達に渡す時ももらった時も、胸ポケットからさっと出し入れできる。
いやこんなもので長くなるなんて、ちょっと想定外だった。
これをやり取りして、私たちはコミュニケーションを取っていたのだ。
返事が速くて長い。と、私は当時から相手への好意を、暑苦しく存分に発揮していた。
高校生になってもこれは続く。
「かせみの手紙で人の心が動くとは思えない」手紙を書くのをやめれば良いのにと母に言われてショックを受けてしまい、いまだに引きずるけど、これは一度謝ってくれている。
ただ、本当は母にも皆にもそう思われているんじゃないかとの気持ちはずっと拭えずにいる。
しかし、ショックは受けても書くのは止まらず、既に病的な域に入り始めていた私は手紙では飽き足らず。大好きな阪神タイガースの応援をするべく、「月刊タイガース」に投稿し、いかに阪神が好きかを熱く語り、何度か載せてもらう。阪神に興奮し過ぎ。
某新聞の投書欄に載せてもらったり、大学生になると雑誌「スクリーン」に、トム・ハンクスへの思いを熱く語って載せてもらったり。2度。トム・ハンクスに興奮し過ぎ。
働き始めると、「週刊ぴあ」の端っこの、記事と関係なく載る「はみだしyouとpia」にネタを載せてもらう。それはもうどんどん。ぴあの方だって、毎週更新で、かなりのページを使うから、その端が埋まるように、どんどん投稿してくれる人のは喜んで載せてくださるのだ。
仕事帰りに本屋に寄って、一緒に仕事を終えた友達と、うひゃうひゃ笑いながら読んだ。なんなら、仕事あるあるも載せていたので、友達はかなり喜んでくれた。
その後はしばらく友達との手紙に終始したけど、長すぎるとよく呆れられて、我慢しなくちゃと思っていたところへ、パソコンが浸透し始め、e-mailができるように!
さらにブログが書けるように!
その間、ほぼ日(ほぼ日刊イトイ新聞)や棒新聞の投書欄、投稿コラム欄などちょこちょこ投稿しては、ちょこちょこ載せてもらえた。
ただ、載るってのと、何かコンテスト物で賞をもらって褒めていただくってのは全然違う。
載るのも、毎回両手を挙げて小躍りするくらい嬉しいのだけど、コンテスト物はもう「その優れた一つ」と決まっている。佳作などを含めると相当数になるので、それにもかすりもしないって悲しいけど、やっぱり優秀とか最優秀って特別。
noteを始めたら、適当に書いていたのだけど、もしかして私のそれを指摘されている? と思うくらいに、私の欠点をついてくる文章とよく出会った。
いやわかっていたけど、別にそんなに読まれなくても構わないと思っていたし、あえてそう書いていたんだよ。ってところも、反省して皆に読みやすいよう工夫しなくちゃと思うようにはなった。
多少読んでいただけるようになってくると、そのくらいのサービス精神は出てくるものだ。
そうやって続けているうちに、日本経済新聞×noteお題企画「#ふるさとの風景」で優秀作品として紹介していただいた。けど、考察を気に入っていただいたようで、まあそれっきりかしら。何にどう影響したわけでもなく。
息子の吃音については、ninaruぽっけで取り上げていただいたり、筋トレのことをちょこっと書いたら、日清食品から連絡をいただき、試食品をいただいた。
どれも「ねーねー!」って周りに言いたくなるくらい嬉しいけど、それがどうしたとばかりに、私の文章は向上しない。向上しなくて良いと思ってしまっているからだ。と思っていたけど、ちょっと違うとも気づく。
自分の文章のスタイルは変えたくないけど、より読みやすく、は強く心掛けている。それにはより伝わりやすくありたい。
先日Kikkoさんにコメントで書いていただいて「わー気づいていただいているんだー嬉しい!」と喜んだのだけど、私はできるだけあらゆる出来事、物事を文字で伝えたい思いがある。(写真や映像自体の記事は別として)写真を文章中に説明の代わりに入れるのは、それでわかりやすいし、タイミング良く入れば笑えたり楽しかったりなのだけど、できるだけ文字で状況を説明したい。
あっ。
今日の手紙の折り方は、とても文章では説明できないと思って気軽に入れたけど!
まあ「できるだけ」ってことで。
説明はくどくなって流されるけど、読めば目の前にその景色や状況が思い浮かぶように伝えたいと心掛けている。
それは、映画が好きなところから来ているかもしれない。
息子が小学生の頃、夢中になったジョン・フラナガンの「アラルエン戦記」って冒険モノの本があった。これが面白くて。それほど文学的なものではないのだけど、しっかり読めば読むほど映画のようにその情景が思い浮かぶのだ。
映像がなくても、こんな風に文字でそれが伝えられるんだと思い知らされた。
映画好きな私だし、そのこだわりだけは手放したくない。
さらに映画好きからなのか、いや、だから映画が好きなのか、どっちが先かわからないけど、解釈をどうぞご自由にって思っている。詩もそう。そのことについて書いているんだ、ってわかる詩より、読んだ人の気持ちや気分で自由に捉えられる詩が好き。だから谷川俊太郎さんの詩は大好きだし、高橋源一郎さんの小説に涙した。その人の感受性次第っていう。
ああでも、そのことについて書いているんだ、ってものも好き! なので!! 誤解なきよう。どちらも好きだけど、どっちが好きか選べって聞かれたらそっちって伝える程度のもので。
そしてちょっと前から考えているのは、noteをどういう場にするかハッキリさせようって。
文を書きたいのは変わらない。だからもうどんどん書けばいいと思っている。前以上に好きなように、好きなことを。好きな量で。
人と関わりたいのも変わらない。でもこれは相手もあることだから、やっぱり私からの働きかけは極力、抑制したい。割り切ってしまえば「みんな~! 反応をちょうだい!!」って苦しまなくて済むようになる。
じゃあnoteで書くことでどうしたいのか。
文章をより良く磨いていきたい。書いて、工夫して読んでもらって、サービス精神も時々発揮して。
それを別の場所で、それこそ何か応募したい時に、ちゃんとした文章を書くべき時に恥ずかしくないように。
私が本当にしたいのは、カウンセリングの勉強と、日本語講師の勉強ではないか。文章を書く以外に、映画を観ることも漫画や本を読むことも、ゲームをするのも好きではないか。
そうすると、始めた頃の気持ちを思い出す。
最初は、記事を上げて3時間位して、ようやく身内の2スキがもらえたくらいだった。
それで良かった。それでも「スキがついた、嬉しい!」って思っていたのだ。
映画の感想、それもほぼMCU(マーベルシネマティックユニバース)のことで埋めていて、そのうちゲームの話でも書ければと思っていた。
そんなことを語ったり、分かち合ったりする仲間ができればなあくらいに思っていたではないか。
どんどんこの世界で翻弄され、周期的に自分を見失い、人にすがるなんていう醜態をさらし、私は何やってるんだろう。
noteは、私にとって楽しむ場所だ。
本来何をしたいか、何を目指しているかっていう自分を見失ってはいけない。疲労が蓄積するばかりだ。
「文章を書くのが好き」「プロとか向上とか目指していないんだけどね、でもずっと書くことと隣り合ってきたんだよ!」と人に言うなら、別の場所で相応の文章を書けるように、求められた時に恥ずかしくないように、私はnoteを続ける。