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「自閉症」への理解は、すべての子育てに通じる~「ぼくと魔法の言葉たち」を観て~

 自閉症について皆さんは、どの程度ご存知でしょうか。

 発達障害なのかなと我が子を疑った時、本を読みあさったものだった。息子が幼少期、だいたい3歳頃から心配し始めた記憶がある。幼稚園の頃は、先生方の子供への対応、親である私へのフォローが手厚かったため、又、私にも信念があって「これで良い」と思っていた。ところが小学校に上がってから不安に。担任の先生はまったく知識がなかったために不安はあおられ、スクールカウンセラーに度々相談し、毎日心配だった。
 結局中学生半ばくらいから、息子に関する心配事が「人並みなもの」になっていった。小学生の頃の先生に責められた数々は何だったのだろうと思い返す。
 息子自身も、その特性のために、標準だとか普通だとか、そういったものについて考える機会が多かったようで、よく口にしていた。

 そうやって大きくなる過程で、あらゆる本を読みながら「自閉症」についても知る機会はあった。でもその当時、理解しきれていなかったように思う。改めて調べてみると、

自閉症は「対人関係の障害」「コミュニケーションの障害」「こだわり、興味のかたより」の3つの特徴があるそうだ。
その特徴すべてを満たしているわけではない場合や発症が認められた年齢が3歳以上であった場合は「非定型自閉症」という診断名だそう。自閉症の半数以上は知的障害を伴い、症状が重い人では合併が多くなるとのこと。知能に遅れがない、高機能自閉症と呼ばれる人々もいる。原因はまだ特定されておらず、多くの遺伝的な要因が複雑に関与して起こり、当然育て方なども関係ない。(厚生労働省より)

 今回、自閉症であるオーウェン・サスカインド君を追ったドキュメンタリー映画「ぼくと魔法の言葉たち」を観たことで、知識としてだけでなく、少しだけ理解が深まった。

 それでもわからないことが多く、noteが発端で知り合ったMさんに、映画の内容をより理解するために、ツイッターで質問させてもらった。彼女には、自閉症のお子さんがいる。

 
 現在23歳のオーウェンは、自立した生活を送るべく、独り暮らしを始めるところ。その彼の現在の心の変化、両親やお兄さんとのやり取りと、彼の幼少期を語る両親との様子が映されていく。
 彼は3歳の頃、言葉を発さなくなり、自閉症と診断される。

 ここで「えっ? 3歳までは普通にコミュニケートしていて、そうなるものなの? 兆候ってないものなの?」と疑問がわいてくる。

 Mさんに聞いてみると、2歳くらいまでで診断がつく子は、「視線が合わない」「人に興味を示さない」「指差しをしない」「人の手を自分の手のように使う(クレーン現象)」「手のひらを裏返して逆さにバイバイする)」「真似をしない」「表情の変化が乏しい」「感覚過敏がある」などといった特徴もあるそう。

 でもこの映画に出てくるオーウェンの場合は、「折れ線型」と分類されるタイプらしく、3歳頃までは目立って発達の遅れがなく、その後成長が後退するとのこと。赤ちゃん返りと間違うケースもあって見極めは簡単ではないそうだが、こういったタイプは何割かいるらしく、時々聞く話でそんなに珍しい例ではないそうだ。

 全然知らず、驚いた。もし自分の子がそうだったとして、しばらくは気づかないだろう。成長は行きつ戻りつだから、こんなものかなと思うかもしれない。
 でも子供の成長がらせん階段と言われているとしたら、これはどのように表現すれば良いのだろうか。いったん上に続く階段が外されて駆け下りていく感覚だろうか。それでもその子にしたら上がっている、意義あることなのだろうか。「私が親なら……」この感覚は映画を観ている間中つきまとった。考えずにはいられない。

 オーウェンが自閉症だとわかった時の、両親やお兄さんの心境がインタビューでよくわかる。一時、悲しみの感情に支配され、衝撃を受けていた。


 それでもそれを受け入れようと努力を始める。この家族の忍耐強さや愛情に、私は強く心を揺さぶられた。そう簡単にここまできたとは思わないけれど、知的に冷静に彼を受け止め、より良い位置で暮らしてもらうために努力し続けている。

 オーウェンが自閉症とわかり、すっかり話さなくなった彼を、専門家も家族も、周りは「話したくない」「話せない」と思っているが、ある時「ジューサーボース」と不明な言葉を発する。それが、ディズニーアニメの中の台詞「just your voice」からだと親が気付く。両親は、これに意味を探すが、専門家は「多分意味はわかっておらず、その言葉を発しているだけで理解していない」と説明する。家族の一瞬見えた光と希望、その後の暗闇と絶望を思いやる。それから彼はまた4年ほど話さない。

 ところが、お兄さんがある年の誕生日会を終えた後に涙ぐんでいたら、オーウェンが親に向かって「お兄ちゃんは子供でいたいんだ。モーグリやピーターパンみたいに」と話す。これもまたディズニーアニメに関連した言葉。

 オーウェンは、ディズニーアニメが大好きだった。それを繰り返し観ていた彼は、セリフを全て覚えていた。そして、彼がそのセリフが発する瞬間は、ちゃんと状況に合っていたのだ。つまり彼の言葉は意味をなしていた。分析的思考があると両親は知り、「映画を通じて現実の世界を理解しようとしている」と気が付く。そして言葉を話させようと決意する。

 ある時、父親は、ディズニーのパペットを使って話しかける。「自分自身でいるってどんな感じ?」と聞くと「友達がいないからつまらないよ」と返してきた。それは初めての意味を成した会話だったそうだ。父親は涙をこらえてパペット役に徹した。
 それから家族中がディズニーアニメの言葉を使って話し始め、会話を取り戻した。

 このくだりは、子育ての真髄を見たようで、とても胸を打った。
 自分の子供がどんな気持ちなのか。子供に、気持ちを表現してもらうために、幾つも例を出す。あのディズニー映画のあの言葉がピッタリ来るのか、それともあっちの映画か。この言葉か。あの登場人物のような気持ちなのか。何本もいくつも例に出してみたと。そうやって子供の気持ちを探って、ああこれがピッタリくるようだとわかる。そしてオーウェンも自分の心の中を探索し、表現するようになっていく。

 オーウェンはその後、障害者の学校を卒業し、独り暮らしを始める。支援者のつくアパートに引っ越し、仕事を探すのだが、Mさんは、この話を羨ましがっておられた。
 一部、彼女の文章を抜粋する。

 「障害者の方が皆で暮らす施設はもちろんたくさんありますが(中で作業をしたりお散歩をします。) 日本でも程度の軽い方は、1人暮らしをしてヘルパーさんに来てもらって家事をしてもらったり買い物に付き添ってもらったりということはよくあると思います。(中略)以前、アメリカで療育の経験をされた記者さんからインタビューを受けた際に、アメリカでは自閉症の支援や療育対策がかなり進んでいるようでした。」

 正確な事情はわからないのだが、映画を観る限り、オーウェンが暮らし始めた所は、私が思い描く「いわゆる施設」ではなく、そこらにある家を大きくしたような自然な建物。玄関口は4つ~6つあり、そこに支援の必要な人たちがそれぞれ住む。生活に困ったことがあれば、支援者が手伝える仕組みができているようだった。又、近所の方たちも理解があるようで、困っている様子が見られると、声をかけて手伝っていた。

 アメリカの田舎の話である。差別だとかイジメだとかが日本と同様か、或いはもっと激しく存在しているその国で、一方でこうやっておおらかな面がある。保育園など福祉施設に対して反対運動が起きたり、抵抗があったりする日本では、果たしてそういった心はあるのだろうか。受け皿はあるのだろうか。近所にできたとして、自然に声をかけたり手伝ったりするのだろうか。今一度考えなければならない。私たちの在り方。


 オーウェンには、付き合う彼女もいて、その同じ建物に、入居が決まる。
 オーウェンのお兄さんは、「ディズニーは男女の関係に踏み込まない」から、オーウェンが今後彼女とどうなっていくのか、どうしていくのが良いのか、男女が深い仲になるにはどうするのかを教える勇気がない、教え方がわからないと悩む。
 しかしそんな風に葛藤している間に、彼女は距離を置きたいと言い出す。

 オーウェンは大変ショックを受け、母親にも話を聞いてもらう。
 母親は「今までもこれからも、とても楽しい時もあるし、心揺らぐ悲しい時も辛い時もある。人生ってそういうもの」「辛い時は永遠ではない。現実と向き合い、痛みをこらえていけばやがて良い方へ進むのよ」と話す。
彼の悲しみや辛さを受け止め、何とか言葉を尽くす母親にも心を動かされた。

 そのうちオーウェンは、異国の地でスピーチする機会を与えられる。
 その内容を考えるのが大変な作業で、度々父親に「書けないよ~」と愚痴を言う。父親はその愚痴や弱音をニコニコと受け止め、「自分で考えなければいけないんだよ」と決して助けない。

 この両親が、23歳の彼の気持ちをここまで受け止めるようになるまで、改めてどのような心理状態に陥り、どのように葛藤してきて、このような親となれたのだろうと、その信頼関係の構築してきた過程に、思いを馳せた。

 彼のスピーチの途中からほぼ全文を書きます。

「自閉症は、他人との関わりを嫌うと思われますが、それは違います。
皆が望むようなことを望みます。でも間違った導き方をされ、他人との関わりを知らずにいます。
僕は学校でいじめに遭い、未来が不安で恐ろしく、成長したくなくなりました。鐘楼に閉じこもり、世界を眺めるだけでした。「ノートルダムの鐘」のように。
この映画は、多くの作品の終わり方と違い、カジモドの恋は報われません。でも彼は大歓声で外の世界に迎えられ、孤独は終わり、見捨てられた存在でなくなります。
僕の場合も同じです。
今、鏡を見ると、誇り高い自閉症の男が映ります。強く勇敢で驚きに満ちた未来に立ち向かう僕の姿です」

 彼はこの全文を自分で考え、自分の言葉で表現したのだ。そしてこの後、離れていった彼女に、「別れても友達でいたい。もっと友達を増やそう」と伝え、気持ちに一区切りつける。

 オーウェンは、「映画好き」を生かし、チケットもぎりのアルバイトを見つけて雇ってもらえたようだった。自分のできる範囲内で働き、生活を始めたのだ。

 彼はきっと多くの人に支えられながら、辛い気持ちも一つ一つ乗り越えながら、これからも社会に貢献していくだろうと希望を感じた。

 そして多様性の本当の意味を考え、一人一人の個性を大切に、人と向き合いたいと強く思わせられるドキュメンタリー映画だった。


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かわせみ かせみ
読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。

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