自分を彩る思い出は良いものも悪いものも、今後を作っていくから
その時感じていることや考えたこと。夫婦や子供、友達の話。その日あった笑っちゃう話。ごくまれに写真。漫画や本の感想。詩。
私が書いて載せている記事はほぼこんなもので成り立っている。
中でも「観て良かった!」映画の感想を書くのはもっとも楽しい。
そしてもう一つ。
上に書いたものの中にも入っているけど、「思い出」について私は度々書いている。
過去を振り返っても変えられない。振り返る過去があるのは幸せだったからだ。思い出に浸って自己憐憫みたい。過去の思い出より前を向いていくんだ。
そんな風に、「思い出」を語るのはマイナスにとらえる場合もある。
そしてそんな風に言われることについて、私は「そうだよなあ」と納得してしまう。本当にその通りだなあ。なんて、しみじみしちゃう。
でも私は「そうだよなあ」とうなずきながら、すんごい振り返る。
こんなことを書いているのは、思い出について語る機会が今後さらに増えそうだからだ。
何故多そうなのかは、母が、実家に置いてある私のアルバムをたくさん送ってきているからだ。まだ全部ではないけれども。
母方の祖母が亡くなってから、両親も世話をする者がいなくなり、今度は心配される側になっている。今はまだまだ元気だけど、何かあった時に駆け付けられる場所にいてほしい。
兄は東京に住んでおり、私は東北地方。
両親のさらに両親たちが、他の地方から来た人たちだからなのか、あまり土地に執着なく、「じゃあ東日本に住む」と切り替えてくれている。
ただこのご時世でまだ動けない状態。
とりあえず今は、家の内外の片づけを進めているようだ。
私の物はほとんどないけれど、生まれてから家を離れるまでのアルバムがあり、選ぶ判断も難しいし時間がかかるとのことで、私は私の分を引き受けることになった。
3歳でニュージャージーに行く直前。
帰国後小学生の頃。
中学生の頃。
大学生の頃。
大学生でニュージャージーに行った頃。
時期はバラバラで、まずはこの辺りのが届いた。
懐かしい思いと共に、振り返りたくない時期のものもあって、眺めているうちに複雑極まりない気分で涙があふれてくる。
なんなのこの気持ち。
ちょっと我慢しながらページをめくっていく。
でももう途中で諦めて、泣きながら一枚一枚見て選んだ。
楽しくて好きな思い出は「戻れない懐かしさ」で胸がいっぱいになりながら。
辛くてイヤな思い出は「こんなにたくさんイヤな思いしちゃったんだ」って悲しくなりながら。
やっぱりこの辺りの日々は……。きっともう思い出したくない。忘れたい。
この写真の瞬間の気持ち、覚えてる。写された瞬間に気持ちを押し込めて笑顔でいる自分。我慢を続けていた自分。それは主に小学生や中学生。小学生の頃は上手く馴染めなかったりイジメられたりしたけど、中学生の頃、私は友達がたくさんいて、学校生活が楽しくなっていたはずでは。
いや違ったんだな。
学生生活を送りながら、帰国子女としての意識が抜けることはなかったんだ。
私はずっと水の中で暮らしているような日々だった。7歳から、再びニュージャージーに行くまでの15年間。目の前を膜が覆ったような見え方で、耳から水が抜けないような聞こえ方で、自分の声さえも少し遠くで聞こえているような。ずっと息をひそめているような。違う場所からいつも自分を眺めているような感覚で暮らしていた。
確かに「自分」だったはずだし、自分の判断もちゃんとできていたのに、友達と話す時は自分はこういう人、って思い込むようにしていた。
だから私は大好きと思い込んでいた「中高生時代」に、楽しかった懐かしさとイヤな気持ちがほぼ同時で沸き起こる。
今も続いている友達二人は、中学時代に出会えて、誰にも言えない葛藤を話すことが手紙や電話で多々あったけど、べったり一緒にいないようにしていた。それぞれの付き合いがあったから。
それぞれの付き合い。
それ以外の友人たち。
学生時代の、たくさんの皆と大笑いした楽しかった思い出と、イヤな気持ちになるしんどい思い出は、残念ながらセットだ。
そんなに単純でもない。
その両方を受け入れて日々暮らしている。
芋づる式に思い出される出来事を、私は「もう過去のことだから前を向くのみ」とは思えない。
思い出は、自分を彩っているもの。
楽しかったことや嬉しかったことは、大切な私の財産。その財産と、しんどかった思い、イヤな気持ちの積み重ねで、今の自分ができている。
そういうのを実感しながら前を向くのって、私には豊かな心の体験だからね。辛くなければだけど、また何度も思い出しちゃうんだろう。