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とりのめむしのめ

視座というものが上がった感覚が最近あったことを自覚したので、少し書いてみる。

前提、自分は自分の中の世界にたぶんすごくこだわりがある。
もう集中したら止まらないタイプである。
これはこれで楽しい時が多いから良いことにしている。
だから、自分の見ている範囲っていうのをちょくちょく意識した方が良いとアドバイスを恩師にもらった。視野を広げることでできることが増えると聞いて胸が高鳴ったのを今でも覚えている。
視野を広げることができるようになれば、人はもっと幸せになれる。
というのが自分の高校生活を終えたときの感想である。

そして、立てた大学生活の目標は「脱 木を見て森を見ず」。

森を見よう

森を見ようとしたときに、自分がやろうとしたのはとにかく広げること。経験を積むこと。絨毯を広げるようにとにかくとにかく走るはしる。
これは楽しかった。
でも、「社会をよくする」という想いを持っている自分は広げれば広げるほど焦りを感じた。
自分の森の見方は、木の一本一本を見ていくという感じだった。
どこに行っても様々な領域が重なって絡み合っているのを感じる中で自分はどうなれば良いのかと考えた。全知全能を目指しながら、全知全能になることは不可能であると悟った。動けば動くほど焦燥感が強くなり、できていないところにばかり目がいった。FBの受け取り方も、よりネガティブになった。

そんなときに出会ったのが「鳥の目」という言葉であった。
俯瞰して見るようなそんなイメージ。
森を見ると似ている。
森をひいて見るイメージ。
俯瞰して見るということに自分は最初抵抗感があった。他人事みたいで、熱量がないみたいでなんだかいやだった。
でも、色々な所に行ったときに熱量を出してその場を盛り上げる人と、熱量をもっているからこそ俯瞰して見る人がいることに気がついた。
熱く、想いを持って、自分の中の何かと戦いながらそっと信じる勇気をもつ大人の存在がたくさんあった。

この話を一緒にして頂いた方が、丁度コマの様に人を認識できるようになると言う話をしてくださった。人をコマのように使うのではなく、認識する。そうすることで全体像を掴みやすくなる感覚があった。ぐっとひくことで、気にしすぎて進めなかった壁がやけに小さく感じた。
人の顔は認識できない距離であるから、そのときは視座を下げることも必要。

組織だけではなく、個人を見るときも同じ事が言える。

個人を見るときの図式

重要なのは、自分の視座をコントロールすること。



虫の目の魅力

「木を見て森を見ず」という言葉は、木を見ることを否定している用に感じて違和感を持ったことがある。真意はわからないが、自分は「木を見る」って言うことがすごく大事だと思っている。
もっというと、木を色々な虫の目が見るから、大きな森ができるんだと思う。

虫の目


視座と視野という概念を獲得できたことは自分に取って大きなこと。
っていうのは間違いなさそう。


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