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「やる気のあるものは去れ。」を考える。

「意識高い」という言葉に違和感がずっとあります。
なんだそれ?って思いながら、自分も使ってしまっていることがあるのもまた事実。言葉に気をつけて生活していきたいですね。

さて最近、衝撃的な言葉に出会いました。
「やる気のある者は去れ。」(タモリさん)
おおおおっていうのが自分の中の正直な気持ち。
同志は多そうですね。心がチクチクします。
今日は、なんかわからないけど自分の中で引っかかったこの言葉を考察していきたいと思います。

やる気がある者へ

なんで自分がこういう表現をしたかというと、完全反論したかったけど、あっ言っている事わかるなあって思ったからです笑
ちょっと悔しいですね。
自分は基本的に実際にやる気がある事も多いです。
ただ、課題があります、それが「冷静さ」「視野の狭さ」「余裕のなさ」。

熱量だけでは何にもならないことを今までの人生で痛いほど学びました。
理論が、継続が、その他も大事。
これは熱量がいらないっていっているだけではなく、どちらかと言えば、「一旦頭冷やして来い」っていう意味に近い気がしています。


ここではあまり書きませんが、視野が狭くなったり、冷静さに欠けたり、余裕がなくなったりすると良いことはありません。
優しい人も優しい人ではいられなくなるでしょう。
目的に向かって熱を持っているはずが、持てば持つほど目標から離れていく。
また、やる気がある人は基準値があり得ないほど高い事があります。その高さが他の人との溝を深め、時に人を軽蔑する事だってあるかもしれません。なにより、その高い基準を保てなくなったときの自分自身を許す事もできないでしょう。

あとは、アッツてなる。
関わり代がないかんじ。

視野が狭くなると、もはや本質を捉えられているのかも疑問です。
がむしゃらにやっているけれど、、みたいな感じになります。

こうなると、「やりたいことするなら自己管理徹底しなよ」っていう一言で済ませようとしてしまいそうになりますが、それもなかなか習慣化していたり、夢中になっていると難しいです。
強いて言うなら、「あなたはそれを背負うほどまだ大きくなれていないから小さくステップアップをしていこう」「それはもうあなた一人でどうにかできるレベルじゃないよ」っていう言葉。
この言葉を自分はかけられたら良かったなあっていう場面が何個か思い浮かびます。




やる気がない者へ

やる気がない者って言う表現が失礼な気もしますが、わかりやすいのでこう書きます。「人のため」が美徳とされるこの雰囲気の中で、なぜひとは自分以外のために動けるのかが自分はすごく興味があります。言い方をもっと強烈にすると、なんで自分以外のんなにかのために時間とエネルギーを使おうと思うのか。
普通は思わないじゃんっていうのが自分が最近思った正直な感想だったりします。そう想った自分にも驚きました。

自分もあの出来事と、あの出来事と、あの出来事がなかったらやる気というものを持たなかったかもしれないです。
やる気がないように見えると失礼だからって気持ちもわかる気がする。
でも、形式的にやる気を求められる場って意外と多い。
もちろん、やる気がないのを見るのは気持ちがいいものではないこともわかる。

最近、「見ていることは参加しているという中に含まれる。」ということを知りました。見ていることで、参加になるなら参加のハードルはぐっと下がります。また、いつか本当に中に入っていくときも参加しやすいでしょう。
自分は熱烈な志望者を見るとすごくわくわくします。
でも、そうでなくても楽しいことに最近気がつきました。


何かとの出逢いは何かを生みます。
結構あります、何で今やってるの?好きなの?
A、だって身近に小さいときからあったんだもん。
A、なんとなく。

なんとなくの中に含まれるっていうのもまた素敵ですね。
だから、「やる気がある者は去れ。」という言葉の裏には、「やる気がない者はもっと前へ。」っていう意味が含まれているのだと思います。
ね、もっと前へ。


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