見られて意識すること
創作や表現について思うことを書く。私は人前でパフォーマンス的に絵を描いたこともあれば、一人で描くこともある。どちらも違う楽しさがある。後で作品を見て良いとおもえるのは圧倒的に後者だけど、なんというか、人前だとアドレナリンが出るので楽しい。
ただ、画材や描き方など、全てを見られているのでなんとも言えない居心地の悪さもある。あぁ、筆が汚れているなぁ、とか、今この線を二度描きしたけど一気にひけたらカッコよかったのに…!と一人で描く時にはどうでもいいことがいちいち気になってしまう。
そういう居心地の悪さの中で良い作品を描くには、見てくれている人が何を楽しんでいるかな、とか想像して、自分のモチベーションをその楽しさの中に持っていくことかも知れない。一緒に楽しむような余裕が生まれれば最高だが、
実際はなかなかそういう領域には到達できず、技術や準備不足を嘆くのが常だ。欲を出して出来ないことまで詰め込もうとしてしまう癖があって思うように出来なかったこともある。
さて、世の中には芸術とは「自己表現」であるとか、個性を表現しているのだと考えている人が一定数いる。そういう側面もあるかも知れないのだが、作る側の視点に立つとやはり「自分」という全く信用ならないパートナーに振り回されながらの作業になる。なんとか「芸術」の妖精さん、あるいはそんな可愛いものではなく怨霊かも知れないが、なんとかお膳立てして降りてきて憑依していただくような感覚に近いと感じる。
たとえ一人で絵を描いていても、自分以外の別の誰かの目を通して作品を作っていることもある。女になったり、子どもになったり老人、あるいは人間以外の者からの視点など、絵のテーマによって様々だ。自分以外の者として作品に向かう。自意識とか、自分らしさとかを全面に出そうとすると私は手が止まってしまうことが多い。
そうした理由を考えるに、そもそも私は「我を忘れる」ために絵を描き始めたのだと思う。例え錯覚でもいいから想像力の力によって自己の肉体や精神の限界を飛び越え、何か他のものになりきるのが楽しいのだ。
前述の人前で絵を描く話に戻るが、「お前は何者か?」という目線を浴びながら絵を描くのはなかなかに集中力が試される。目の前の人は「使っている画材は?」「絵のテーマは?」「学生さん?」「仕事は?」「どれくらい絵を勉強しているの?」「プロではないんでしょ?」といった好奇心の目を向けてくる。そのため人に見せる以上は、仮でもいいからなんらかの自分のアイデンティティーを確立して見せなくては納得してもらえない。
「プロの画家です!」とか大きく出るなりすることで自分が何者であるのかを主張する。それは自分が提供できる物の値札を見せることでもある。
陥りがちな間違いはそういう、実務的なハッタリと芸術表現を同化させてしまうことだ。作品製作と実務的なハッタリは別だと割りきって気分を切り替えないと「プロはこんなことしないよな、これはアマチュアのやり方かな」とか考え初めて作品が萎縮してしまう。
それならいっそのこと、ヘンリーダーガーのように誰にも見られない作品を作るのも有りかも知れないと思ったりもする。
見られていても見られていなくても全く変わらないというのは不可能ではあるけれども、変わらない部分を大切にしていきたい。
…てゆーか、そんな理屈こねてないで作品の方を描かなくちゃ。
支離滅裂ではありますが最後までありがとうございました。