努力はギャンブル
心理学を学んでもっとも良かったことは、「人間心理の介在する分野に、『絶対』などない」ことを知れたことだ。
心理学を駆使しても、できることはあくまで「人間の行動の予測」である。
書店のビジネス系心理学書の帯に書いてあるような、「心理学で人を操る」なんてことはありえない。
できたとしても「誘導」までである。
心理学は、「こういう状況下では、人間はこういう判断・行動を起こしやすい」という「見込み」までは語れるが、「絶対にこうなる」とまでは断言できない。
人間の行動は、他人が管理できない変数によっても簡単に左右されてしまうために、最終的には「確率」や「運」に委ねられる。
言い換えれば、人間心理に関わる問題は、すべてが「ギャンブル」なのである。
努力もまた、ギャンブルである。
努力に対して人々が求める「成功」は、たいてい社会的評価だ。
そして社会的評価というものは、人間の意思決定の集合に過ぎないので、まさに人間心理が関わる問題だ。*1
したがって、努力と成功の関係も、ギャンブルである。
ギャンブルなので、「努力が報われるとは限らない」のは当然である。
では、努力がギャンブルでしかないのなら、私たちは努力をすべきではないのだろうか?
私たちは今まで、親や社会にギャンブルは悪いものだと教わってきた。
そうではない。
自分の人生のために、私たちは「努力」という名のギャンブルをすべきである。
私もかつてはそうだったが、ギャンブルと聞いて脊髄反射的に嫌悪感を覚えてしまう人には、1つ知ってもらいたいことがある。
それは、世の中には「有利なギャンブル」と「不利なギャンブル」があるということだ。
「有利なギャンブル」と「不利なギャンブル」
さて、話を続ける前に、これを読んでいるあなたに、1つギャンブルを持ちかけたい。
ぜひ真剣に検討して欲しい。
さて、あなたはこのギャンブルを受けるだろうか?断るだろうか?
正直に告白しよう。
真面目で保守的だった私は、かつてこのギャンブルを断った。
なぜなら、1万円は私にとって大金で、2分の1の確率で1万円を失うのは恐ろしかったからだ。
読者の中にも、私と同じように「断る」人は多いはずだ。*2
しかし、もしも今また同じギャンブルを持ちかけられたとしたら、私は受ける。
それは私の性格が変わってリスクを許容できるようになったからではない。
このギャンブルが「有利なギャンブル」であると知っているからだ。
あるギャンブルが有利か不利かは、「期待値」を計算することで明らかにできる。
期待値とは、起こりうる結果に発生確率で重みをつけた加重平均だ。
平たくいうと、何回もこのギャンブルを行ったときに、1回あたりどのくらいこのギャンブルで得するか損するかが、期待値を計算すればわかる。
今回のコイントスのギャンブルの場合は、「-10,000 × 0.5 + 20,000 × 0.5 = 5,000」で、期待値は5,000円だ。
つまり、このコイントスを何回も行った場合、一回あたり「5000円の得」ということになる。
「そんなバカな」と思うかもしれない。
「50%の確率で損をするギャンブルで、なんで5000円も得をするのだ。」と。
しかし、もしあなたがこのコイントスを100回行った場合、あなたが1円でも損をする確率は、わずか0.0004%である。
つまり、ほとんど0%だ。
相当に運が悪くない限り、あなたは得をしてしまうのである。
このように期待値がプラスのギャンブルは、続ければ続けるほど儲かる確率が高くなるようにできている。
これが「有利なギャンブル」であり、合理的に考えれば、今回のコイントスは受けたほうが良い「有利なギャンブル」なのだ。
一方で「不利なギャンブル」は、この期待値がマイナスになる。
たとえば、宝くじやパチスロといったものがそうだ。
おそらく、人々が抱くギャンブルへのネガティブな印象はこのあたりの「不利なギャンブル」からきている。
ちなみにある宝くじの期待値は、マイナスの150円だ。
続ければ続けるほど損が膨らむ仕組みになっているので、「お金を儲ける」という目的においては、不合理な選択だといえる。
(娯楽という目的においては、その限りではない。)
このように、同じギャンブルといえでも、世の中には「有利なギャンブル」と「不利なギャンブル」がある。
そして努力もまたギャンブルならば、おそらく「有利な努力」と「不利な努力」がある。
人生を好転させたいなら、宝くじを買いにいくよりも、新規顧客に営業したり、新たな作品を発表したり、プログラムを書いて新機能をリリースしたりするほうが「有利な努力」になるはずだ。
もちろん、努力もまたギャンブルなので、顧客に営業しても断られるし、作品を発表しても反応をもらえないし、新機能をリリースしても無風なんてことはザラにある。
それは辛い経験だろうが、長期的にみて有利だと確信できるギャンブルならば、私たちはコイントスのギャンブルのように、淡々と続けるべきである。
最初のコイントスで1万円失ったとしても、そこで萎縮してはいけないのだ。
努力は夢中には勝てない
コイントスのような「有利な努力」を見つけたら、私たちは諦めずに努力し続けることが重要だ。
ギャンブルに忌避感を覚える人に知ってもらいたいことは、ギャンブルの結果には「試行回数」が大きく影響するということである。
たとえば、勝率1%のギャンブルは、一見ひどく不利で馬鹿げたものに思える。
しかし、1%の勝率のギャンブルであっても、458回繰り返せば、99%の確率で勝利できるのである。
もし1%で得られるものがあなたにとって価値が高く、かつあなたが458回の努力を惜しまないのであれば、このギャンブルに挑むのは合理的だと言える。
ソーシャルゲームで、SSR排出率が1%のガチャがあったとしても、458回ガチャを引く覚悟があなたにあるのならば、それに挑むのは合理的な選択なのだ。
英国の歴史家トーマス・カーライルは、才能を「無限に努力できる能力」と定義した。
これは言い得て妙だ。
才能とは再帰的な評価である。
世間は、その人の社会的成功を後知恵で評価して、当人が努力で培ったものまでひっくるめて「才能」という便利な一言で表現する。
そして社会的成功という結果が運の介在するギャンブルであれば、「無限に努力できる能力」は、おそろしく有利に働く。
なぜなら「無限に努力する能力」は「無限の試行」を生み出し、勝率1%のギャンブルにも99%勝ち続けられるからだ。
成功が約束されていることに、限りになく近しいといえる。
「努力は夢中に勝てない」という話も、「試行回数」から考えると得心がいく。
努力は結果を動因にしているため、結果にモチベーションを左右されてしまう。
一方で夢中は行為それ自体を動因にしているため、モチベーションが自己完結しており、結果にモチベーションを左右されにくい。
勝率1%のような、結果でモチベーションを維持するのが難しいギャンブルにおいては、試行回数は、努力家より夢中な人間のほうが多くなりそうだ。
もしそのギャンブルの勝率を操作できないのであれば、試行回数のより多い夢中な人間が努力家より結果を出すのは必然であると言える。
試行回数は、ギャンブルにおいて極めて重要だ。
たとえば、偉大な音楽家となったモーツァルトとベートベンは、他の音楽家に比べるとヒット率が低い。
つまり、彼らは他の音楽家よりも大量の作品を創作したために、得難い名声を得られたというわけだ。
「天才」という社会的評価もまたギャンブルであり、試行回数に大きく影響を受けるのである。
そのため、「有利な努力」と「不利な努力」、すなわち「有利なギャンブル」と「不利なギャンブル」を見極めるときには、ギャンブルそれ自体の性質だけでなく、自分の性癖にも向き合う必要がある。
もしもあなたが、金銭や社会的評価といった結果よりも、むしろそのギャンブル(努力)自体に夢中になれるなら、それは良い努力のシグナルだ。
また、あなたがそのギャンブルを10年続けられると思うなら、それも良い努力のシグナルだ。
「諦めずに続けることが大事」という月並みなアドバイスが真理である理由は2つある。
一つは、人間心理が根底にある社会において、結果というものは結局のところギャンブルであり、成否を絶対的に保証するものなどどこにもないからであり、
もう一つが、ギャンブルでアタリを当てる方法の一つが、試行回数を増やすことだからだ。
「続けられること」は、それ自体が大きな強みなのである。
せめて悔いのない賭けをしよう。
ジェフ・ベゾスがAmazonを起業したとき、自身の成功確率を「よくて30%」と見積もったという。
これを初めて聞いたとき、私は「よくもまぁ30%のためにキラッキラな投資銀行を辞められたものだ」と思ったものだ。
しかし、正しいのは、私ではなく、ジェフ・ベゾスだ。
それは彼が成功したからではない。
期待値的に明らかに「有利なギャンブル」を見送らなかったからだ。
たとえ彼が失敗していたとしても、彼の判断は合理的であったという点で正しいはずだ。
同時期に同様の事業で結果的に失敗したWebVanも、合理的という意味では正しかったのだろう。
人の世に『100%』や『絶対』が存在しない限り、正しい判断でも失敗してしまうことはありうるのだ。
しかし、世間はそうは見ない。
成功すれば、まるで事前に「成功が100%保証されていた」ように語られるし、失敗すれば、「100%失敗する運命にあった」ように語られる。
「彼は正しい判断をしたが、運が悪くて失敗した」とか「彼は誤った判断をしたが、運よく成功した」という話は滅多に聞かない。
心理学ではこの現象に「後知恵バイアス」という名前がつけられているほどだ。
人間はどうにも、結果に対する確率や曖昧さを受け入れるのが苦手らしい。
その是非をここで問うつもりはないが、よくも悪くも、それが人間社会というものだ。
あなた以外にとっては、あなたの評価は、運を含めた結果がすべてだ。
ギャンブルの結果がすべてである。
だからこそ、私たち賭けの当事者自身は、結果とは別のところに、人生の意義だとか、努力の価値だとかを見い出すべきだと思うのだ。
賭けである以上、絶対に勝利することなどできない。
最初に紹介した有利なコイントスのギャンブルであっても、損をする確率を完全に0%にすることはできないのだ。
ならば、楽しい賭け、やりがいのある賭け、負けても悔いのない賭けをするべきだと私は思うのである。
結果だけでなく、歩む道それ自体が、自分の人生にとって価値があると思える努力をするべきだと、私は思うのである。
私は、自分の会社やプロダクトが必ずしも成功するわけではないことを知っている。
しかし、私はこの賭けを続ける。
その動因が、起業という青天井の利益への期待に裏付けられていないと言えば嘘になるが、実際、そうした金銭的・社会的評価だけが目的ならば、私は何年も自分に給与も払わない生活を受け入れてはいないだろうと思う。
私がこの賭けを続ける理由は、この賭け自体が、私の人生にとって価値があるからだ。
実際のところ、私は、毎日小さな賭けに負けても、心理的な報酬を受け取っている。
事業自体が楽しいというのもあるが、夢があるというのも大きな理由だ。
「辞書版Github」や「心理学に基づいた語彙習得システム」というDiQtの構想に思いを馳せるとき、私はその使命感に高揚する。
国境を超えてモノや人や情報の行き来が増え、言語の変化が加速し、また少数言語の絶滅が問題となっている現代における、DiQtの社会的意義を確信できるからだ。
言語は、iOSやAndroidやWindowsなどとは比べものにならないほど人間の根幹をなすプラットフォームであり、この分野で働けることのやりがいとロマンは計り知れない。
人間は、個人よりも大きな存在のために生きるとき、幸福を感じられるようにできているのかもしれない。
「有利なギャンブル」を説明する際、期待値の概念をわかりやすく説明するために金銭的リターンでのみギャンブルを評価したが、実際のところ、あなたの人生にとって重要なギャンブルを評価する際には、あなたの幸福のために、金銭以外の指標も十分に考慮すべきである。
幸福とは、身もふたもない言い方をすれば、ドーパミンやセロトニンやオキシトシンといった脳内の神経伝達物質に過ぎない。
そして金銭的リターンは、この幸福のうち、ドーパミンに属する1要素でしかないのだ。
もし金が幸福そのものなのだとしたら、貧乏人は全員自殺しているし、金持ちの自殺者もいないはずだが、現実はそうなってはいない。
私たちは、私たちの幸福のために、金銭を含む私たちにとって重要なあらゆる要素を考慮に入れて、「あなたなりの有利なギャンブル」を選ばなくてはならない。
「心理的期待値がプラスになる」ギャンブルを選ばなくてはならない。
それが「人生」という名のギャンブルを生きる上での指針だと私は思うのである。
そう、「人生」もまたギャンブルなのだ。
そしてこのギャンブルの最も重要な元手は、「命」だ。
あなたが今日を健やかに生きているのは、昨日0.2%の確率で起こり得た「ハズレ」を引いて交通事故に遭わなかったからである。
どんなに賭けに負けたとしても、生きているという時点で、私たちは人生という賭場に立てる幸運に恵まれている。
しかし、私たちには必ず「死」という終わりがあり、いつかはそのハズレを引くときがくる。
それは50年後からもしれないし、来週かもしれない。
そのときにあって、悔いを残さない賭けを、私たちは今日、すべきだと思うのである。
たとえ、その賭けに負けたとしても。
結果は賭けでも、生き様は意志なのだから。
注釈
*1 金銭的評価についても、機械や冪等なプログラムから自動的に報酬を受け取るのではなく、会社なり取引先などの人間心理から報酬を受け取るのであれば、社会的評価に含まれている。
*2 多くの人々がこのコイントスのギャンブルを降りてしまうのは、心理学でいうところの「損失回避性(loss aversion)」が強く影響している。人間には利得よりも損失に対して2倍以上強く反応する性質があるので、2万円を得る期待よりも、1万円を失う恐怖が上回ってしまうものなのだ。そのため多くの人々は、この有利なギャンブルを見送ってしまいがちなのである。
あなたの貴重なお時間をいただき、ありがとうございました!