あんまかわらんなあ。
とらさんでございます。
私が幼少期を思い出すとき、浮かぶキーワードは二つ。
『想像するに「一過性」であろうことには手を出さない。』
『少数派を怖がらない。むしろ楽しむ。』
『想像するに「一過性」であろうことには手を出さない。』
記憶にあるこの精神性の始まりはビックリマンチョコに入っていたシール。
親の買い物についていった時に、きょうだいで買ってもらってなんとなく集めていて。
きょうだいのなかではそれでとても楽しかったんだけど、あるとき友人のコレクションを見せてもらったときに、その圧倒的な数に、なんだか自分たちが集めていたことに冷めちゃったような感覚に。
とにかく、「お金をかけてランダムなものを集める」ということに心が靡かなくなったのはその出来事がきっかけ。
それからも、学生時代には'遊戯王'や'マジック:ザ・ギャザリング'などカードゲームが流行っていたけど、全然興味でなかったっけな。
親がよく言ってた「欲しいだけなのか、必要なのかよく考えろ」という言葉も関係しているのだと思います。
『少数派を怖がらない。むしろ楽しむ。』
小学4年生くらいだったかな。なんの教科だったか「ディベート」というものがあった。
<どちらとも言えるしどちらとも言えない>ようなテーマで、自分がそうだと思う方の視点に立って討論するという内容。(例えば、【のら猫とかい猫どっちがしあわせか】【過去と未来いくならどっち?】【透明人間になりたいか】など)
たしかそのときは【宇宙人はいるか】というテーマ。
私は最初‟いない”だったんだけど、たしかクラスの9割くらいがそっちで、なんかつまんないなと思って‟いる”に変更してみました。
‟いる”グループの4人くらいで討論の内容について作戦を(こう発言したら向こうはこうくるだろうから、それに対してこう言おう。みたいなことをそれなりに綿密に)立て、討論開始。
最後のジャッジはクラスメイト全員の挙手の数で勝敗が決まるシステムだったんだけど、多くが‟いる”に翻って、‟いる”グループの勝ち!
これがものすごく強烈な体験で、そこから「少数派でも作戦次第で説得できるんだなー、すごく楽しいなー!」というマインドが形成されたように思います。
人生で<どちらとも言えるしどちらとも言えない>ことを、どちらかに決めなければならない場面は多いですよね。そのときに、たとえ自分の意見がマイノリティであっても怖がらずにいれるのは、小学校でのあの体験があったから。(理由や根拠が自分の言葉で説明できるのは大切な条件。)
あとはもう、親の影響が多大。
例えば、、
紅茶を選ぶか、珈琲を選ぶか。
山が好きか、海が好きか。
そういったことって、本当に親の影響が大きいですね。
親のあらゆる何気ない行動が子どもに影響しているというのは、大人になって感じます。ものすごく感じます。
あ!これ、父のあの感じが出ちゃってた!とか、
あ!いまの発言、母の言い方にそっくりだった!とか。
個人的には子ども時代から、‟そうなってたまるか!”的に、無意識に発生してしまう親の影響によるであろう判断や行動を、自分の意識にあげて判断しなおすことに注意を払っています。(我ながら変な癖!)
とはいえ、
「三つ子の魂百まで」という言葉があるように、
それはたぶんきっとそうなんだと思う。
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さて。
遅ればせの仁義、失礼さんでござんす。
西に行きましても東に行きましても、とかく土地土地のおあにいさん、おあねえさんに御厄介かけがちなる若造でござんす。
以後見苦しき面体お見知りおかれまして、恐惶万端引き立って、よろしくお頼み申します。
とらさんでした。