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自分の飼育員は自分。毎日どんなエサを与えるのか?が、自分をつくる、という話。

僕は自分で自分を飼育するイメージを持って、日々を生きています。
飼ってる犬や猫に毎日エサや水を与えるように、自分自身にも毎日エサを与えてやる。
いち早く自分の変化に気づいて、自分のバランスが崩れているようなら、修正してあげるために、この視点を持つようにしています。

生きるとは、本当に何事もバランスだなぁと感じます。食事のみならず、その他も全てバランス。

過剰に多くも少なくもない、自分にとっての物事の良いバランスを、経験の中で学び取っていくことが「経験値を積む」ということかもしれません。

先ほど、毎日自分に「エサ」を与えると言いましたがそれは食事のことではなく、例えば、
「人に会うか会わないか」「誰に会うか会わないか」「どんな話をするかしないか」「出かけるか出かけないか」「働くか休むか」「料理をするかしないか」「散歩するかしないか」
そういう、日々の一つ一つ「どんな時間をすごすか?の選択」を「自分に与えるエサ」と、考えています。

このエサのバランスが慢性的に崩れていると、そのうち自分の心身のどこかに支障が出てくる。
肉ばっか食べてても、野菜ばっか食べてても、健康が損なわれるのと同じ。
人と会い過ぎても、会わな過ぎても、ダメ。
仕事し過ぎも、しなさ過ぎも、ダメ。

じゃあどれくらいか良いバランスなのか?は、個人差があるしそれは毎日の自分のコンディションに聞くといいのかな、と考えます。
毎日バランスよくエサを与え続けられていると、「なんかいい感じ」に、過ごせます。  

でもエサのバランスが崩れていると、「めっちゃくちゃ絶好調で何でもできそうな全能感」があるとか、「何もかも面倒で無気力で虚無ったり憂鬱」とか、そういう極端な状態になってしまいます。
これは、エサによって自分の体調がおかしくなっている目安になる。

ちなみに、「めっちゃ、絶好調で全能感」の状態は一見良さそうなんですけど、僕は経験上ヤバいと、判断しています。
後でメンタル的な反動来たり、その時に手をつけたことの回収が効かなくなったり。とにかく、ヤバい。

それよりも、程よく「なんかいい感じだなぁ」くらいがいい。
熱くも冷たくもない、ぬるま湯に自分を設定しておく。そのためのエサを日々与え続ける。

毎日モヤモヤを募らせていたり、イライラしたり、逆に、調子が良すぎるように感じる時はきっと「エサ」のバランスがおかしくなっている。

少し自分から離れた引いた目で、振り返ってみる。
毎日どんなことをして過ごしているのか、どんな言葉を発して過ごしているのか、どんな人と会っているのか、どんな考え事をしているのか、
これらは全て、自分が自分に与えているエサ。
そのエサの中身を確認してみる。

僕は小学生の頃、学校の飼育小屋のエサと水やりの担当になったことがあります。
毎日、ウサギやニワトリの待つ小屋に通っていると、初めは分からなかったことが、段々となんとなく分かるようになるんですよ。
「あ、コイツ今日元気ないな…」とか
「お、こっちは調子回復してるな…」とか、ウサギやニワトリの変化になんとなくですが、気づけるようになったんですね。

あれはきっと錯覚ではない。日々の観察が僕にもたらした「見る力」の変化だったと思うのですが、これを自分に対してもやる。毎日やる。

どんなエサを与えるか?の目安を取るためには、今の自分の状態を把握することが大切です。

疲れているとき、友人の誘いを受けるのか、断るのか?
無気力なとき、散歩に行くのかいかないのか?
ポジティブが爆発してしている時に、何をするのかしないのか?
今日会う人とどんな言葉を交わすのか交わさないのか?

これら、ひとつひとつ自分に与える「エサ」をなるべく選び間違えず、「なんかいい感じの自分」でいられるよう自分を飼育する。
その視点は、自分を客観視できて、冷静な物事の判断に繋がる。
気楽に生きるために、必要な視点ではないかと、僕は思います。

敏腕な自分飼育員としての、自分でありたいものです。

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