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【twilight 第1話】お決まりの朝

センセイの朝は早い。人々がまだ寝静まっている5時半にはもう布団を出ている。センセイの辞書に2度寝の言葉はない。
たいてい、保険のために仕掛けた、アラームが鳴る前に目を覚まし、光の速さで布団を出る。

まだ外は暗く初冬の朝の空気が、カーテンと窓を隔てた向こうに漂っている。その気配にブルッと身震いをひとつ。「はぁ…寒い季節が今年もやって来るなぁ…いやだなぁ」。
この世界において、寒さと〆鯖の2つは、センセイがどうしても好きになれないものである。

台所に立って湯を沸かしながら、シンクの上の棚にある銀色のボウルに目をやると、歪曲した寝ぐせ頭が映っている。思いつきで手に取り上げたボウルをよく見てみると、経年の細かいすり傷が無数についている。
ここに引っ越してきて8年。新生活道具を揃えていた時に買ってきたもの。あたりまえに傷も増える。自分の何気ない生活が、無数の傷の犠牲の上にあることが、一瞬センセイの頭をよぎる瞬間、ヤカンが笛のように音を立てた。

居間の畳に腰を落ち着けて、ズズズと珈琲をすすりながら、出勤前のなんとなく過ごす時間。白み始めた空の光が、カーテンのヒダに陰影を落としていく。
思いつきで流した今朝の音楽は坂本慎太郎の「幽霊の気分で」であるが、歌い出しの「広い通りを死んだ つもりで彷徨った 景色に溶け込んでみせたい」という歌詞は、ほのかにセンセイを愉快にさせた。

センセイは1日のうちの、「なんとなく過ごす時間」を大切にしている。そして、それを確保する為に、大半の時間をなんとなく過ごさないでいる。物事にできる限り集中する。
表があるから裏があるのと同じで、集中してなんとなく過ごさない時間があることで、なんとなく過ごす時間はうまれる。
とは言っても年々集中力が続かなくなっている事に加え、元々ストイックになりきれない性分だから、そのさじ加減はあくまでセンセイの主観に過ぎないが。

今朝もあいまいに心地よく、なんとなく時間を過ごしていると、パジャマ姿の奥さんの「おはよう」の声。おはようと返すセンセイに「今朝も早いのね」と、これまたお決まりの返し。日々は小さな「お決まり」の積み重ね。センセイにとってそれは、安心感でもある。

1日3度の食事を取らないと、食切れを起こして動けなくなる奥さんの朝食は、切り餅である。これもお決まり。今朝もビニールのパッケージから切り餅を2つ取り出した奥さんは、それをまず10秒ほどレンジでチン。その後にトースターに移して焼き上げる。「こうすると、早く焼けるのよね」。

奥さんは生活の知恵者であり、結婚してからというもの、センセイも些細な生活の知恵を、奥さんからいくつ学んだか知れない。しかし、そのほとんどに出番はなく、知り得た知恵を1回こっきり活かしたが最後、記憶のむこうで雲散霧消してしまうのだった。

「ほんとに何でもすぐ忘れるんだから。前にも言ったのに」と、半分冗談半分本気で笑う奥さんの言葉は、たいていセンセイの「本当のこと」を言い当ててくる。
しかし、「本当のこと」とは当人にとってしばしば受け入れがたいものである。先の言葉はそのご多分に漏れず、センセイは「そうだね」と言っては、「本当のこと」からヒョイと目を背けてみるのだった。

台所に置かれたテーブルの上で奥さんは、焼き上がった餅を頬張っている。相変わらずスピーカーは、坂本慎太郎の脱力した歌声を室内に響かせている。
そろそろ着替えの準備をするべく立ち上がったセンセイは、押し入れ兼クローゼットから、紺色のシャツを1枚引っ張り出すとアイロンに取りかかった。

あれだけ苦手だったアイロンがけも、今では日課となりお手のもの。シワひとつ残すことなくパリッと、おまけに時間もそうかからずに仕上げることができるようになった。
奥さんが教えてくれたアイロンがけの知恵。「スチームは、なるべくシャツから遠ざけて噴射するの。そしたらムラなくシワが延びるよ」については、毎日のアイロンがけで実践している。だから忘れないでいられる。
しかし、奥さんから「忘れていないこと」に関してのお褒めの言葉はない。そういうものだ。

時計の針が7:50を回ったところで、シャツに袖を通しズボンを履き替える。服を着替えることは、多くの人にとって自分のスイッチを切り替える作業ではないだろうか。
センセイも、最後に薄手のダウンに袖を通すと「ようし」と、内側からカチッとスイッチの音が聞こえる気がする。

「いってらっしゃい」と、玄関先で見送ってくれる奥さんの声に背中を押されて、センセイは表に飛び出す。といっても、子供のような勢いはなく、あくまでささやかに、つつましく、音も立てずにソフトタッチで飛び出す。いつの間にか空もすっかり朝に着替えて、高い位置にうっすらと雲が煙のようだった。

燃えるゴミがパンパンに詰まったビニール袋を、マンション備え付きのゴミステーションに放り込む。他の部屋の住人である女性と、すれ違いざま「おはようございます」と、控えめな声で挨拶を交わす。

通勤時に住宅街の路地を歩くと、似たようなサイクルで生活をしているのだろう、同じ人と毎朝すれ違う。
その中の1人、黒髪のA子さんとセンセイの中で勝手にそう呼んでいる女性と、今朝もすれ違う。

この頃は黒髪のA子さんも、コート姿に衣替えしたようだ。もしかしたら、向こうは向こうでセンセイのことを勝手に「天然パーマ」などと、あだ名をつけているかも知れない。「あ、天然パーマ、今日はダウンじゃん」みたいな。

朝の通勤時、ただすれ違うだけのお互い。挨拶を交わすわけでもなく、ただ、すれ違うことでお互いを知っている、それだけの関係。それはセンセイに、嬉しいような寂しいような、言葉にならないごちゃまぜの心もようを描かせる。
詩人ならそれを言葉で表現するのかもしれないが、悲しきかなと言うべきか、センセイは詩人ではない。感じるままにそっとしておく。

視線の先100メートルくらいだろうか、青信号が赤に切り替わったのが見えた。センセイの歩くスピードで行けば、次の青信号がタイミングよくやってくる頃合いだ。国道を行く車のエンジン音。アスファルトに散らばった枯葉が、風に吹かれて立てる乾いた音。センセイのお決まりの朝である。

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